メモ
2013.03.18
 三年前の晩夏に大量に本を購入し、さらにこの二年間は年あたりに読む冊数が激減して、まとめて本を買う機会から遠ざかっていた。
 一番最近に本を10冊以上一度に買ったのは昨年の夏の紀伊國屋書店による「ほんのまくら」フェアの時で、あれは本の書き出しだけで買う本を選ぶというスタイルだから、「気にかかった本を探して数ページ立ち読みして購入するか否かを決める」という、私にとってのいわゆる「ふつう」の本の買い方で本をまとめて買ったのは本当に久しぶりのことになる。

 「帰りに本を買いにゆく」と決めていた今日は、朝から心の底がわくわくしていた。「本を買う」というたったそれだけのことが楽しみで、仕事中も張りがあった。就業のころには空腹でふらふらになっていて急いで飲食店に駆け込むのが常であるのに、食事の時間も今日は惜しく、さっさと電車に乗って書店に向かってしまった。

 本を買うというのは、自分が「読んでいい」本を選ぶということなのだと思う。『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』でカリエールが言った「本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。」(p.382)という言葉を思い出す。
 世には膨大な量の本がある。そのなかに、数えきれなくなりそうなほどの「読んでみたい」本がある。そのすべてを読み切ることは、絶対にない。一生涯ありえない。
 だからこそたぶん、本を買うということは幸福なのだと思う。

 書店にあるだけでは本はまだ遠く、「いつか読むかもしれない」存在だ。その時、本は私のものではない。「読むかもしれない」本は、同じくらい「読まないかもしれない」本でもあるからだ。
 買うと、本は私のものになる。本の支配権が私のものになる、と言う方が正解に近いか。
 カリエールの言った「読んでもいい本」という言い回しは、自分がその本を読むか否かの選択権を得たことを意味するのだと思う。(新刊本ばかりを読む私と違って稀覯本蒐集家のカリエールにとっては、この実感ははるかに強いもののはずだ)。本を買ったその時から、その本は「読めるか読めないか」でなく「読むか読まないか」の二択によって私のなかに存在するようになる。

 図書館を使わないのは所有欲の表れだと自覚してはいたけれど、その理屈を初めて体感で理解した気がする。