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『名前探しの放課後』 辻村 深月
初版:2007年12月 講談社
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 ある日、依田いつかは同級生の誰かが自殺するという記憶を持って時間を三ヶ月巻き戻された。自殺する同級生の名前を思い出すことができないいつかは、その人物を探し出すため、そして自殺を食い止めるために友人たちに助けを求めた。学内に自殺の理由を抱えた人物がいないかと探すうちに、やがていつかたちはひとりの生徒に行き着いた。

 まず、この本を読むならその前に『ぼくのメジャースプーン』を読まないといけない。続編というわけではないけれど、同じ世界を共有しているので先に『名前探しの放課後』を読んでしまうと後悔することになる。

 人が自殺するということ、そこに他人が関わろうとすること。それは重い。食い止めようと奔走する間に感じ続ける「もしも止められなかったら」という思いは、いっそ何も知らなかったふりをして投げ出したいと人に思わせるのに充分な恐怖だと思う。
 けれどいつかはためらわない。その理由を「罪悪感に苛まれなくないから」だといつかは言う。善意なんかじゃないと言う。確かにそうかもしれない。けれど人の死、しかも自殺に向き合おうとすることはまぎれもない強さだ。深くかかわったことのないひとりの人間のために自分の時間や労力を目一杯ささげて行動を重ねるいつかの強さは登場人物たちのなかで誰よりもまっすぐだ。

 いつかに協力する人々の輪は小さいながらもしっかりとつながっている。その連携の強さはいつかのまっすぐな意志がたぐり寄せたものだ。
 人は人の本音に無意識に気付いてしまう。いつかが尻込みする気持ちや失敗への恐怖にとらわれていたら、きっとこうやって人が集まることはなかっただろう。この物語も暗い終わりになっていただろう。

 過疎化する地方都市、両親を持たない子どもへの周囲の視線、彼氏彼女というつながりを含めた人間関係。自殺という要素以外にも、この小説にはいくつかの暗い問題が描かれている。辻村さんはその問題に安易な答えを与えたりしない。けれど、解決の希望があることも必ず示している。
 何もかもうまくは行かない、誰も彼もが純粋ではない。けれど少しでも良い未来をつかむ手段はある。その手は誰もが持っている。これはそういう小説だと思う。
2009.09.30