2004 年 日本
監督 : 押井守
キャスト : 大塚明夫 / 田中敦子 / 山寺宏一 / 大木民夫 / 仲野裕 / 榊原良子 / 武藤寿美 / 竹中直人
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人間の脳が直接ネットワークに接続し、体の機械化も進んでいる未来。
少女型ガイノイドが所有者を殺害し、後に自殺する事件が連続する。バトーは相棒であるトグサと共に、製造元の捜査にあたった。
先日「押井守と映像の魔術師たち」を見てきた流れで、「イノセンス」を借りた。
前作「GHOST IN THE SHELL」でもそうだったけれど、攻殻機動隊はエンターテインメント性と哲学が混ざり合わないまま並列に存在する作品だと思う。
前作およびシリーズのヒロインである草薙素子が不在のまま、ストーリーは進む。しかし、バトーの周囲に確かに彼女の影は見え隠れしている。バトーは素子ととても近い場所へ歩み進んで行きつつも、決して彼女そのものにはならない。擬似的に自らを素子に重ねてみても、バトーは決して素子にはなれないのだ。
ふざけ半分に素子を自らの「守護天使」と呼ぶバトーといい、ふたりの関係は妙にセンチメンタルでロマンチックだ。私は、このふたりはヒロインもののヒロイン・ヒーローの関係の王道的だと思う。素子の作品への絡み方といい、とてもエンターテインメント性が高い。
しかしそこに、「人間と人形」という何百年と考え続けられてきた哲学が絡んでくる。難解な引用が幾つも引かれ(文章でならばともかく一時停止や巻き戻しなしに音声で理解するには難しいだろう)、様々な仮説が登場するものの決して解答はない。
この作品で提示されたテーマで印象深かったのは、「子育ては自分の理想の人形を育てる行為なのではないか?」「人間は不完全な存在であり、無限の意識を備える神か意識を持たない人形になるしか完全になる道はない」というものだ。前者は前々から私自身が考えていたことでもあるし、後者はおそらく人類が恐れ続けて来たことなのではないだろうか。
後者のテーマを聞いて考えたのは、人形を 0、人間を 100 とした時、中間は 50 になる。人形が人間に近づいて 50 になったものと人間が人間としての機能(この作品内の言葉で言えばゴーストとなり、一般的な言葉で言えば魂となるだろう)を捨て去ってなった 50、同じ 50 という値に差はあるのかということだ。
果たして人形は人間になれないのか、また人間は人形になれないのか。生物という自然が作ったものならば解析して差を見つけることも可能だろうが、人形は人間が創り上げた無機物に過ぎない。人間と人形という有機物と無機物を比較するのは、攻殻機動隊の舞台となるような人間が無機物に、人形が有機物に近くなった世界では限りなく不可能なのではないか。