自分の性癖を開陳するのは恥ずかしいし、なおかつ第三者から見れば悪趣味でしかないけれど、これを話さなければ始まらないのだから仕方がないと腹をくくろう。
私はセックスコンテンツとしてレイプが好きだ。虐待や蹂躙を好み、快感を得ている心地よさそうな女性の顔にはそそられない。泣き叫んでいる顔にしか反応しない。ひとりの人間が、特に女性が、さらに言うならばまだ抵抗を知らないいたいけな少女が性行為を含む虐待によって人格ごと破壊されるような目に遭う描写がたまらなく好きだ。どこにこの根があるのかわからない。興味もほとんど湧かない。単なる私の一嗜好だ、と認識している。無残であればあるほど興奮する。
近未来、実の父にレイプされ、その後娼婦になったバロットは、シェルという男に拾われる。そして、そのシェルに殺される。生きたまま焼かれ、もうほとんど死にかけたところで、進みすぎたがために禁じられた科学技術でその命をかろうじて取り留める。そこからこの物語は動き始め、バロットの戦いが始まる。
全三部作のこの映画シリーズの、第一部『圧縮』を一回、その〈完全版〉を二回、第二部『燃焼』を一回、私は映画館で観た。『圧縮』については劇場公開期間最終日に観たのでいずれにしろ一回だけしか劇場で観るチャンスはなかったのだけれど、〈完全版〉については第二部公開直前のリバイバル上映をした近いとは言えない距離の映画館まで二度も観に行った。その二度は、間に二日しか置いていない。たいした熱狂の仕方だったと思う。
その理由のすべてはバロットだった。『圧縮〈完全版〉』は R-15 指定となっている。無印に比べ性描写が少々あからさまになった。私はバロットが男どもに喰い物にされる姿を観たくて映画館に足繁く通ったのだ。
あれほど熱を上げた『圧縮〈完全版〉』を観た直後に公開された『燃焼』を一度しか観に行かなかったのは、その熱が『燃焼』では燃え上がることを許されなかったからだ。バロットは強くなり反撃を始めた。ただ犯されるだけの存在ではなくなった。それが単純にして唯一の理由だ。
『燃焼』の中にいたのは、私の求めていた思うさま犯されるバロットではなかった。
『圧縮』を観た時の私の感想を少し引用しよう。
「私は、バロットの乞う虚しい愛や、ウフコックが見せる心からの誠実な好意、そして少女が弾丸に乗せて放つ恍惚と、握られる銃の慟哭に、深く魅了されてしまった。」
「彼女が、銃撃のなかでようやく、初めて、かつての自分が味わっていたものを知る。その姿はどうしようもなく痛ましく、虚しい。しかし美しい。」
この文章が言及しているシーンで、バロットは自分を殺そうとした、つまり自分の存在を犯そうとした男に銃弾を浴びせながら「死ね、クズ!」と叫び散らす。彼女が口からそうほとばしらせるのは、かつて彼女が男たちから与えられた言葉だ。「クズの私を犯した男が今私の目の前でクズになってクズの私に殺される」。
どうしようもない最底辺の絶望だ。それをまだ少女であるバロットの狂いかけの脳でリピートする。痛ましい。私好みの痛ましさだ。
さて、そして第三部の『排気』である。『燃焼』のことがある。あまり期待はしなかった。楽しみではあったけれど、『圧縮〈完全版〉』にあった熱狂が再び戻るとは考えなかった。そして事実そうなった。けれどそうやって尻すぼみに終わっただけのシリーズであるならこうも自分の汚点をさらけ出しながら長々と作品について語ろうとはしない。
しかし、かといってストーリーについて語ることが必要であるとは思われない。そも原作は全三冊の小説で、それが三部合わせて 200 分に満たないアニメーションのなかに閉じ込められたのだから、私は『マルドゥック・スクランブル』というストーリーのほとんどの部分を知らないままでいるはずだと思う。小説と映画とは別物だとはいえ、ここまで理解できていないものに対して語ることはできない。
だからバロットについてだけ話そう。
バロットはうつくしくなった。実の父に欲情され少女娼婦として生きていた彼女である。見た目の美しさなど合金の折り紙つきだ。けれど彼女は醜かった。主要な登場人物の名前が卵にまつわる単語からつけられたこの物語において、バロットとは有精卵のゆで卵のことである。ゆでられる卵のなかではすでに命が育ち始めており、ものによっては孵化直前のものもあるから、殻を割ると死に絶えたほとんどヒナと変わらないものが出てくることもある。グロテスクだ。殻を割る前に殺されたもの。バロットはとてもグロテスクなものだ。それは自分を犯した男たちを自分自身に反映し殺戮に狂乱する『圧縮』の戦闘シーンで最もあらわになる。
しかし彼女は恵まれた。彼女は彼女を守るもの、導くもの、諭すもの、気づかせるものに出会っていった。そしてバロットは自らの求めるものに気づく力、対峙する力、さらには受け止め、昇華し、気遣う強さすらも身につけた。
そこには彼女の本質的な能力もあっただろう。どれだけ大切に温めても命のない卵は孵化しない。
この感動をどう言ったものか、おそらく私では言葉にできない。
第一部において、彼女は私の性的玩具だった。ただそれだけの存在であり、それだけの価値しかなかった。私や作中の男たちに使われる消耗品でしかなかった。しかし、『排気』で見た彼女のうつくしさは彼女を下衆な目で消費する私という人間を殴り飛ばした。何者にも折れず、屈せず、そして同時に誰かを害することもない、独立不羈の少女に彼女はなった。
彼女は作中序盤で大いなる力を得たが、それはそれだけではむき出しの刃に過ぎない。周囲も自身も傷つけることしかできないその刃を、彼女は鞘に収める術を身につけた。力に酔わず、力を正しく利用することを学べる人間が、この世にどれだけいるだろう。その彼女の強さに、その姿を見せられて、私の目には涙がにじんだ。
自分を蹂躙した相手に同じ行為を必死の狂気でやり返していた少女が、それが精一杯の正気を保つ方法であった少女が、自分を見つめ、そのために自分を犯した人間のことをもまっすぐに理解しようとする。力を借り、助けられ、そこから他者の力に頼らないことまでをも学び取り、自分を侮り征服しようとする人間に向かって対等に対峙する。これ以上のうつくしさがあるだろうか。
私は物語が好きだ。キャラクター小説のたぐいは好きではない。けれど『マルドゥック・スクランブル』はとても珍しく、物語にではなくバロットというたったひとりの少女にひたすらに惹かれて追い続けた作品だった。全三部作を観終えた今では、設定状況も環境もバロット以外の登場人物全員も、あらゆるすべてが彼女のために存在していたようにさえ思われる。
閉じ込められた固い殻を、唯一破って生きることができたのは彼女だけだった。彼女たちが迎えたのは明白な救いではないつらいエンディングであるけれど、殻の外に出た彼女はもう目を開き耳をすませ、悲しみをすら受諾することを知っている。
私はセックスコンテンツとしてレイプが好きだ。虐待や蹂躙を好み、快感を得ている心地よさそうな女性の顔にはそそられない。泣き叫んでいる顔にしか反応しない。ひとりの人間が、特に女性が、さらに言うならばまだ抵抗を知らないいたいけな少女が性行為を含む虐待によって人格ごと破壊されるような目に遭う描写がたまらなく好きだ。どこにこの根があるのかわからない。興味もほとんど湧かない。単なる私の一嗜好だ、と認識している。無残であればあるほど興奮する。
近未来、実の父にレイプされ、その後娼婦になったバロットは、シェルという男に拾われる。そして、そのシェルに殺される。生きたまま焼かれ、もうほとんど死にかけたところで、進みすぎたがために禁じられた科学技術でその命をかろうじて取り留める。そこからこの物語は動き始め、バロットの戦いが始まる。
全三部作のこの映画シリーズの、第一部『圧縮』を一回、その〈完全版〉を二回、第二部『燃焼』を一回、私は映画館で観た。『圧縮』については劇場公開期間最終日に観たのでいずれにしろ一回だけしか劇場で観るチャンスはなかったのだけれど、〈完全版〉については第二部公開直前のリバイバル上映をした近いとは言えない距離の映画館まで二度も観に行った。その二度は、間に二日しか置いていない。たいした熱狂の仕方だったと思う。
その理由のすべてはバロットだった。『圧縮〈完全版〉』は R-15 指定となっている。無印に比べ性描写が少々あからさまになった。私はバロットが男どもに喰い物にされる姿を観たくて映画館に足繁く通ったのだ。
あれほど熱を上げた『圧縮〈完全版〉』を観た直後に公開された『燃焼』を一度しか観に行かなかったのは、その熱が『燃焼』では燃え上がることを許されなかったからだ。バロットは強くなり反撃を始めた。ただ犯されるだけの存在ではなくなった。それが単純にして唯一の理由だ。
『燃焼』の中にいたのは、私の求めていた思うさま犯されるバロットではなかった。
『圧縮』を観た時の私の感想を少し引用しよう。
「私は、バロットの乞う虚しい愛や、ウフコックが見せる心からの誠実な好意、そして少女が弾丸に乗せて放つ恍惚と、握られる銃の慟哭に、深く魅了されてしまった。」
「彼女が、銃撃のなかでようやく、初めて、かつての自分が味わっていたものを知る。その姿はどうしようもなく痛ましく、虚しい。しかし美しい。」
この文章が言及しているシーンで、バロットは自分を殺そうとした、つまり自分の存在を犯そうとした男に銃弾を浴びせながら「死ね、クズ!」と叫び散らす。彼女が口からそうほとばしらせるのは、かつて彼女が男たちから与えられた言葉だ。「クズの私を犯した男が今私の目の前でクズになってクズの私に殺される」。
どうしようもない最底辺の絶望だ。それをまだ少女であるバロットの狂いかけの脳でリピートする。痛ましい。私好みの痛ましさだ。
さて、そして第三部の『排気』である。『燃焼』のことがある。あまり期待はしなかった。楽しみではあったけれど、『圧縮〈完全版〉』にあった熱狂が再び戻るとは考えなかった。そして事実そうなった。けれどそうやって尻すぼみに終わっただけのシリーズであるならこうも自分の汚点をさらけ出しながら長々と作品について語ろうとはしない。
しかし、かといってストーリーについて語ることが必要であるとは思われない。そも原作は全三冊の小説で、それが三部合わせて 200 分に満たないアニメーションのなかに閉じ込められたのだから、私は『マルドゥック・スクランブル』というストーリーのほとんどの部分を知らないままでいるはずだと思う。小説と映画とは別物だとはいえ、ここまで理解できていないものに対して語ることはできない。
だからバロットについてだけ話そう。
バロットはうつくしくなった。実の父に欲情され少女娼婦として生きていた彼女である。見た目の美しさなど合金の折り紙つきだ。けれど彼女は醜かった。主要な登場人物の名前が卵にまつわる単語からつけられたこの物語において、バロットとは有精卵のゆで卵のことである。ゆでられる卵のなかではすでに命が育ち始めており、ものによっては孵化直前のものもあるから、殻を割ると死に絶えたほとんどヒナと変わらないものが出てくることもある。グロテスクだ。殻を割る前に殺されたもの。バロットはとてもグロテスクなものだ。それは自分を犯した男たちを自分自身に反映し殺戮に狂乱する『圧縮』の戦闘シーンで最もあらわになる。
しかし彼女は恵まれた。彼女は彼女を守るもの、導くもの、諭すもの、気づかせるものに出会っていった。そしてバロットは自らの求めるものに気づく力、対峙する力、さらには受け止め、昇華し、気遣う強さすらも身につけた。
そこには彼女の本質的な能力もあっただろう。どれだけ大切に温めても命のない卵は孵化しない。
この感動をどう言ったものか、おそらく私では言葉にできない。
第一部において、彼女は私の性的玩具だった。ただそれだけの存在であり、それだけの価値しかなかった。私や作中の男たちに使われる消耗品でしかなかった。しかし、『排気』で見た彼女のうつくしさは彼女を下衆な目で消費する私という人間を殴り飛ばした。何者にも折れず、屈せず、そして同時に誰かを害することもない、独立不羈の少女に彼女はなった。
彼女は作中序盤で大いなる力を得たが、それはそれだけではむき出しの刃に過ぎない。周囲も自身も傷つけることしかできないその刃を、彼女は鞘に収める術を身につけた。力に酔わず、力を正しく利用することを学べる人間が、この世にどれだけいるだろう。その彼女の強さに、その姿を見せられて、私の目には涙がにじんだ。
自分を蹂躙した相手に同じ行為を必死の狂気でやり返していた少女が、それが精一杯の正気を保つ方法であった少女が、自分を見つめ、そのために自分を犯した人間のことをもまっすぐに理解しようとする。力を借り、助けられ、そこから他者の力に頼らないことまでをも学び取り、自分を侮り征服しようとする人間に向かって対等に対峙する。これ以上のうつくしさがあるだろうか。
私は物語が好きだ。キャラクター小説のたぐいは好きではない。けれど『マルドゥック・スクランブル』はとても珍しく、物語にではなくバロットというたったひとりの少女にひたすらに惹かれて追い続けた作品だった。全三部作を観終えた今では、設定状況も環境もバロット以外の登場人物全員も、あらゆるすべてが彼女のために存在していたようにさえ思われる。
閉じ込められた固い殻を、唯一破って生きることができたのは彼女だけだった。彼女たちが迎えたのは明白な救いではないつらいエンディングであるけれど、殻の外に出た彼女はもう目を開き耳をすませ、悲しみをすら受諾することを知っている。
2012 年 | 日本 | 66 分
監督:工藤進
キャスト:林原めぐみ、八嶋智人、東地宏樹、中井和哉、磯部勉
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