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『吉原炎上』 斎藤真一
 『吉原炎上』(斎藤真一)を読了した。先に読了した『塩の水のほとりで』と同じく、他の本と同じく並行読みをしていたので読了までに二ヶ月強かかった。というか、並行読みももちろん理由なんだが、この本自体は女性蔑視的であったり花魁賞賛目線であったりするものでは決してないものの、プライベートな理由によりしばらく性的な話を見たくないモードに入っていた(こういう生き方をしていた女性を無邪気に賞賛するのは女性蔑視と同等に害悪だと思う)。今もそのモードから抜けてはいないが、読了本を増やしたいというよこしまな理由により、続きを読んだ。

 画家の斎藤真一さんが、自身の母の養母であり明治二十年代に吉原で遊女として生きた内田久野さんを画と文で描いている。遊女というのは働き方ではなく生き方である、と私は思う。多くの遊女が命を落としていったなか、斎藤さんの義祖母・久野さんは年季明け手前で後に政府高官にまでなった男性に見初められ結婚した。
 斎藤さんがあとがきで書いた内容は身内の話だけで終わらず視線が遠くまで届いているやわらかなもので、遊女として生きる女性たちの日々に胸を痛めながら読み進めて来た私の心を少し楽にしてくれた。こういう視点でものを見る人が書いたものなら信じられるとも思う。

「人間はみんな這うように苦労しながら生きているのだ。それでもどうしても幸せを得られない人、養祖母のように、ふと幸せを得るような人もいるのだと思える。
 そして、今一度裏を返してみると、もし、この記に書いた小花のように、若くして死んだ遊女が仮りに私の祖母だったら、私はこの世に存在しないはずである。誰も小花のことを記すべき人もなかったであろうと思うのである。
 貴方も私も、昭和に生きている、絶対に貴方であり私なのだけれど、明治に生きた人であってもけっしておかしくないのだと思えてくる。私が小花で、小花が今の私であっても一向におかしくないのではないだろうか。」

 女性規範にはまらず、かつパンセクシュアル(全性愛者・性的指向が異性に限らずあらゆる性別の人に向く)である私は、「生まれた国や時代が少し違えば公的に死刑になったり家族から殺されたりしていたのだろう」ということを折に触れては考える。斎藤さんのこの言葉を読みながら、また考えた。自分と彼の人は交換可能であったと考えること。自分が彼の人のようであっても何もおかしくはない、むしろ当然のことだと思うこと。これが共感ということなのだと、私は思う。
 性別さえ越えて、あえなく死んでいった遊女に共感できる作者が描いているからこそ、私はつらいつらいと泣きながらもこの本を読了できたのだと、あとがきを読みながら気づかせて頂いた。
初版:1985年10月 文藝春秋
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2014.06.15