メモ
2014.04.16
 自分に似た登場人物の出てくる作品の感想を、客観的に述べるのは難しい。どう頑張っても、彼や彼女を鏡面に見立てての自分語りになってしまう。
 『イッツ・オンリー・トーク』(絲山秋子)の優子や『海を抱く BAD KIDS』(村山由佳)の恵理、『コンセント』(田口ランディ)のユキ。この3人はほとんどそっくりそのまま私自身で、だからこの3つの作品について、まともな感想を述べられたことはない。

 1月に観た『パリ、ただよう花』(ロウ・イエ監督)の感想を言葉にできなかったのも、近い理由だ。けれど、『パリ、ただよう花』の主人公「花」は、私に似ているけれど根幹的なところで違っている。だからこそ、ある意味では、最初に挙げた3つの小説よりもさらに感想を書くことが難しかった。
 私に似た登場人物のことなら自分語りを織り交ぜて話してしまうこともできる。けれど、似てはいても、似ているだけで確かに違う花のことを、似ている部分だけ引き寄せて自分語り的に話してしまったら、花について嘘をつくことになる。花と私の決定的だけれど微細な差をきちんと認識しないことには、感想を書けない。そしてそれが難しくて難しくて、3ヶ月近くが経ってしまった。

 教師である花は、恋人を追って北京からパリへ渡る。しかしパリについた花は早々にこっぴどく恋人にふられ、路上で会った行きずりの男マチューとセックスし、そのままその男と恋人同士となる。

 この映画を観た直後のメモで、私は「ホアが愛を求めているようには見えなかった。ただ、自分の内部に常に巣食うむなしさ、居所のなさ、救いのなさを消し去る方法を探し、世間の皆が口をそろえて「愛があれば幸せだ」と言うから、自分が求めているのもまた愛なのだと思い込んでいる。そう見える。」と書いている。そして数ヶ月を経て、私は花のことを「愛したいし愛されたいのにセックスで愛を台なしにしちゃう女」なのだと納得するに至った。
 ほとんど正反対のことを言っている。それくらい、花のことを自分から切り離して、花という個人として見つめることは難しかった。

 そして、愛を求めてセックスする花という彼女の本来の姿を見つけた今、私は心のなかで花に思わずこう話しかける。
「だめだよ花。セックスの元に愛は生まれない。愛からセックスが生まれてくるんだ。鶏を温めてもヒナは孵らない。あなたは求めるべきものを間違ってる」。

 花の彷徨に行く先はない。出発した場所が間違っていたのだから。どこにも行き着かない。そしてもちろん、「だから」と言って立ち止まることも、引き返すこともできない。ラストシーンの、さまよい続ける花の視線の、今こそようやくその意味を理解できる気がする。
 作品には終わりや果てがあるだなんて、誰が決めたのか。映画の尺は終わっても、花の彷徨は永遠に終わらない。

 さて、ここまで咀嚼に時間のかかった素晴らしい映画を撮ったロウ・イエ監督の作品が、4/19から4/25までの一週間、高田馬場駅にある早稲田松竹(公式サイト)という名画座で三本立てで上映される。『パリ、ただよう花』と、上海が舞台のロマンティック・サスペンス『ふたりの人魚』、南京を舞台に描かれる三角関係『スプリング・フィーバー』。
 ロウ・イエ監督の作品を立て続けに三作も観るだなんて、さぞや疲れることだろうと思う。けれど、それが楽しみでたまらない。
 早稲田松竹も、気になりつつなかなか足を運べずにいた映画館なので、作品も映画館もどちらも楽しみにしつつ、上映を待ちたい。