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『エディプスの恋人』 筒井 康隆
初版:1977 年 10 月 新潮社
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 『家族八景』『七瀬ふたたび』に続く、「七瀬三部作」の最終作だ。
 三部作中、『エディプスの恋人』は最も観念的な小説だ。純粋なエンターテインメント作品として楽しめるのは『家族八景』や『七瀬ふたたび』だと思うけれど、私はこの三作目が一番好きだ。

 一作目から二作目にかけて、物語の軸となる存在は一般人から超能力者へ移り変わった。そして三作目に至って、語られるのは神とも言うべき全知全能の存在となる。七瀬はそれを“意思”と呼んだ。森羅万象すべてをその視野に収める存在である。

 一般人に対する自分の特異性を常に意識し続けてきた七瀬が、自分のはるか高みにいる超自然的な存在を感じることになる。“意思”が現れることで、一般人を一種の観察対象として常に上位から見下ろしていた七瀬は、初めて他者に支配されるということ、そして屈服するということを知る。

 ごく普通の人々にとって、自分の上に位置する存在があるというのは特別衝撃的な事実ではない。社会的に、経済的に、上位者の存在は常に周囲に存在しているからだ。しかし、生まれた時から「超能力」という周囲に対する絶対的な上位性を持って生きてきた七瀬にとっては、実在する神というのは一般人にとってのそれとはまた違った存在として映るのである。
 神という絶対的な存在を知ったときに誰もが考えるような、「自分の未来は決まっているのではないか」「すべては神に操られているのではないか」という疑念。それを、前二作までは世界に対する超越者であった七瀬が感じることで、読者を含む一般人が神の存在を知るのとはまったく別の切り口が現れる。

 神を知った七瀬の前に現れるのは、滑稽で愚かしく、それでも決しておいそれと降りることはできない現実という舞台だ。かつては周囲に対する上位者であった七瀬にとって、それは一般人にとってよりもより深く落ちていく奈落である。

 繰り返すけれど、私は「七瀬三部作」中で『エディプスの恋人』が一番好きだ。そして同時に、前二作が好きな読者にとっては『エディプスの恋人』は強いとまどいを感じる作品かもしれない、とも思う。前二作にあった娯楽性はなりをひそめて、代わりに解のない哲学が提示される。

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2010.10.30