21日に「地球持続の技術」を読了しました。三連休はずっとバイトで時間がとれず、感想を書くのが遅くなってしまいました。
石油の枯渇、地球温暖化、大量廃棄物の三つの問題に対して技術的な解決の方策を示した本です。技術の話なので、たとえばエコバッグやクールビズ・ウォームビズのような個人の行動に関する話はでてきません。地球規模で物質の動きをとらえ、持続可能な社会をつくるために技術はなにができるかという話です。技術屋さんにはぜひおすすめしたい一冊です。
作者はつねに“持続可能な社会をつくることは可能である”ということを語っています。それを納得させられるだけの理屈もきちんと書いています。技術と言われてもわからないし…という方でも、地球環境に興味があるのならぜひ。
今は、おすすめいただいている「愛の生活 森のメリュジーヌ」を読んでいます。
おすすめいただいていた「小説・秒速5センチメートル」を読了しました。おすすめ、ありがとうございました。
ここ数日は読書の時間をとれない状況だったのですが、今日の夜になってようやく時間ができました。読み始めたのは11日なのに今日までに読み進められていたのはたったの30ページで、ほぼ一気読みにちかい状態です。
主人公の貴樹は優しすぎるほどに優しい人で、そして不器用で、だから自分が見て触れて受け取ったなにもかもを身のうちに降り積もらせていってしまう。適度に風化させたり手放したりということができない。
そういう生き方をしていると記憶や感情の行き場がなくて、きっとどうしようもなく辛いだろう。
できたことよりもできなかったこと、だれかにしてあげられたことよりもしてあげられなかったことばかりが脳裏をめぐって離れなくなる、そんな生き方を貴樹はしている。
自分の心にけじめをつけることが苦手で、終わりにしたつもりで気づかないまま丸ごと胸にとっておいてあった想いや記憶を唐突によみがえらせて苦しんで泣いたりする。不器用すぎる。もっと楽に生きる方法はいくらでもある。
けれど、そんな貴樹だから見える世界やできる人とのつながり方、そして確かな強さがあるはずだ。それを見つけるまでの道のりは途方もないほど長くて何度泣いても足りないほど辛いだろうけれど、それは価値のあることだ。辛い時間のはてに自分の内側に生まれるものには必ず価値がある。
都合よく救いがあったりしない、と貴樹は言った。けれどそれを知った人間だからこそ救いの重みを知り、人にそれを与えることができるようにもなるんじゃないだろうか。
「小説・秒速5センチメートル」は貴樹が始まるまでの物語だ。始まる前の苦しくて長い下地の時間。特別じゃなくていいから苦しみたくない、という生き方だってあるだろう。けれどなにかに苦しむということは決してその人を裏切らない。その時間があったからこそ手に入れられた貴いものを、貴樹はこれからいくつも見つけていくはずだ。
できることなら貴樹には、自分は人生で出逢ったそれぞれの人々をすこしずつでも幸せにしてきたのだということに自ら気がついていってほしい。そしてその人々に自身も幸せにしてもらってきたのだということを、ずっと忘れないでいてほしい。
一昨日、ほぼノンストップで「キノの旅」の12巻を読了しました。
第十話の「雲の前で」がお気に入りです。13巻にも登場してくれないかなぁと考えてしまいますが、期待すると後でがっかりするのがこわいのでほどほどに。
けっきょく、「チェーン・ポイズン」よりも先におすすめいただいている本を読み始めています。「秒速5センチメートル」は個人的な思い出のある作品でもあって、ゆっくりとかみしめるようにして読み進めています。外出先ではなんとなく読みにくくて、自室にいるあいだだけの読書です。外出中には「地球持続の技術」という新書を読んでいます。
「4TEEN」を読了しました。
私のなかで石田衣良さんの作品は「IWGP」系統と「娼年」系統のふたつにわけられるのですが、「4TEEN」は「IWGP」系の作品でした。
語り手のテツローと、早老症のナオト、大柄で大食いのダイ、小柄で頭の良いジュン。とてもシンプルにキャラクター付けされた4人の中学2年生の1年間を軽快に描いていく。舞台の月島は、衣良さんが1作目を書いたときに実際に住んでいた土地だ。
4人が生きているのは現代で、決して昔を振り返って書かれた小説ではない。なのに、どこかなつかしさが感じられる。それは私自身が14歳だった時代をなつかしむ世代だからという以上に、衣良さんがなつかしみながら書いているからというような気がする。
テツローの語り口には、最近の中学生にしては古くさい言いまわしが入り混じっている。それは衣良さんがいまどきの中学生をとらえきれていないということじゃなくて、自身の中学2年生当時の世界を見る感覚を思い出しながら今を描いているからじゃないだろうか。
無理に“いまどき”を追いかける必要なんかない、どうせなら小説の舞台を自分が14歳だった時代にさかのぼって書けばいいじゃないか、という意見もあるかもしれない。
けれどきっと衣良さんは、いつでも今をみつめていたい人なんじゃないかと思う。若者ぶりたいとか理解者ぶりたいとかそういうことではなくて、今目の前にあるものをただただ慈しんでいるんじゃないだろうか。
衣良さんは14歳だったころの感覚を自分のなかによみがえらせて、現代の月島を見えたままに書き出したんだろう。テツローの語ることばは衣良さん自身が14歳だったころのことばで、けれど見ているものは今の東京だ。そんな風に何十年と時間を越えた視点と世界が交わっているから、「4TEEN」には今らしさとなつかしさが同居しているように感じられるんじゃないだろうか。
無理にいまどきの中学生のことばを使うことをせず、自分の持っていたことばで今見えているものを書く。衣良さんの小説にはいつだって、心地よくて力まない雰囲気があると思う。
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さて、おすすめいただいていた「秒速5センチメートル」と「愛の生活 森のメリュジーヌ」は無事土曜日に購入できました。ただ、それと一緒に購入した「キノの旅 XII」と本多さんの「チェーン・ポイズン」がとても気になっている状況です。
「キノの旅」は小説というよりもコミックスの感覚なので積読するには抵抗があり(コミックは購入次第なるべくすぐに読みたいたちなのです)、本多さんはデビュー単行本から買い続けてきた作家なので思い入れがつよいのです。ほかに気になる本がある状態でおすすめいただいた本を読んでも落ち着いて読むことができないので、先にこちらの2冊を読んでしまうかもしれません。
ちなみに、ほかにも「つむじ風食堂の夜」という文庫を購入しました。積読本が多いので今回は小説は先述の4冊以外は買わないつもりでいたのですが、先月末に書店で平積みになっているのを見てどうしても気になって、買ってしまいました。こういう直感には従うことにしています。おすすめ本を読み終わったらゆっくり読もうと思っています。
「失はれる物語」を読了しました。
乙一さんは「きみにしか聞こえない―CALLING YOU―」を2年前の1月(なのでほぼ3年前)に読んだきりでした。「失はれる物語」には「きみにしか聞こえない―CALLING YOU―」に収録されていた「Calling You」と「傷」が加筆修正されて再録されていました。
ラノベ出身ということもあって乙一という作家をそれほど評価していなかったというのが正直なところ。けれど、「失はれる物語」一作目の「Calling You」を読んで、こんなに切実な小説だったかと驚いた。3年前はたぶん、無意識にしろ色眼鏡で読んでいた気がする。
収録されている8つの物語はどれも一人称で話が進む。たったひとつの視点で物語は進んでいく。けれど、語り部にあたる彼ら彼女らは自分の感情をむやみやたらに吐露したりしない。むしろ、どの物語でもただ淡々と事実を書き記していくだけだ。痛い、苦しい、そういう言葉を使うときも、ただ事実として痛みがあるからありのままにそう語るだけで、自分の痛みを振りかざしてなにかを憎んだり同情を買おうとしたりはしない。
それはきっと、それぞれの語り部たちが皆、その痛みにあまりにも慣れすぎているからだ。痛い、苦しい、そう声をあげて叫ぶことはそれまで痛みを知らなかった人間だからできることだ。それを日常として生きてきた人間は、どうしようもないものと信じて痛みを受け止めている。だから、ことさらに声を張り上げるということがない。
さらに言えば、敏感すぎる人々にとっては、無神経に痛いつらいと叫ぶこと自体がむずかしいことなのだ。
だから彼らはただ事実を語る。それ以上のことはできないし、だからこそ読み手として彼らに触れるとその痛々しさが胸に迫る。
時間がたったおかげか、私はもう彼らの痛みを自分と重ねてみるようなことはできない。彼らの痛みがやわらぐ日が来ることを知っているし、大丈夫だよと声をかけて欲しい立場から声をかけてあげたいと思う立場になった。
ただそこにある事実を積み重ねていく乙一さんの小説の書き方は、どろどろした感情が渦巻いていなくて、からからに乾いていて、洗いざらしのシーツのようだ。それは潔いほどきれいだけれど、そのぶん彼らがそんな風になってしまうまでの過程を想像してしまう。語り手たちはみんな人間だ。もっとぐずぐずと自分の感情を泣き叫んでいいはずだ。
けれどそれをできない弱さと、しない優しさを持っている。そんな彼らがふと口元をほろこばせて安心して自然と笑う瞬間。人間くさい湿っぽさを取り戻すそんな一瞬までのつらくて暗い時間を、乙一さんは丁寧にくみ上げる。