「漆の実のみのる国」を読了しました。去年、大学の研究室の教授から課題図書として指定された「代表的日本人」について授業で話しあったとき、「上杉鷹山に興味がわいたなら、この本も鷹山について書いてるよ」と教えられて、春休みに読んでみようと思っていたもの。
「代表的日本人」は史実からはかなり離れた文章だったので、それしか読んでいないのはこわいな、ということもあって。ただ、それなら次に手に取ったのが小説でいいのか、という話でもありますが、藤沢周平を一度は読んでおきたいということもあって。
いろいろな本を読んでいると、泣けるということと感動はちがうし、笑えるということと楽しいはちがうし、中毒性が高いと好きだはちがう、ということに気がついてきます。読み終えて、ああ、まだ読んでいたいな、藤沢周平のほかの小説を読んだらこの欲求に応えられるかな、と思ったのですが、これはたぶん中毒性の高さだと思います。小野不由美なんかもこんな感じ。ただ、彼女の作品の持つ中毒性の理由は、藤沢周平とはまた違いますが。
たぶん「漆の実のみのる国」は、奇をてらわないストレートな感じが心地よかったのだと思います。解説を読むとこれは藤沢周平の遺作ということで、私が感じたのは、長年書き続けてこなれた作家の持つ居心地のよさ、のようなものだったのかもしれません。浅田次郎の「姫椿」を読んだときにも思いましたが、伝えたいことをありのままに飾らずに書く、というのは、若いうちにはきっとずいぶん難しいことだと思うので。
藤沢周平の書く上杉鷹山像はとても好ましい人物で、それもたぶん、まだ読んでいたいと感じた理由のひとつだと思います。
小野不由美といえば、先月27日に発売されたyom yomのvol.6に掲載された「十二国記」の番外短編を、28日朝に買ってバイトの休み時間をつかって読破しました。この勢い込んでしまう感じが、中毒性の高さを表してると思います。
本当はそのままyom yomを読み終えるつもりでいたのですが、「十二国記」を読み終わってみると感慨が深すぎて、しばらくはその余韻にひたっていたくなってしまいました。私が大好きな国を舞台にしていたこともあって、嬉しさもひとしおです。「十二国記」は、少しでも読むとシリーズ全巻を読み返したくなるから困ります。
私が一番最近に読んだ小野さんの作品は「屍鬼」で、あの重苦しさが記憶にこびりついて離れない身としては、今回の明るさを持った短編はとてもうれしいものでした。
さて、おすすめいただいていた「赤い星」、ようやく読めました。漫画喫茶での読了だったので手元にないのですが、主役のふたりはもちろんのこと、レオの奥さんに心引かれてやみません。「正しくはないけれど愛していた」、ということばが、ずっと残っています。
正しいとされる愛し方、正しくないとされる愛し方、というのは確かにあって、ただ、その区別ってそんなにも簡単につけられるんだろうか、といつも考えています。正しいばかりが価値だろうか、とも。
正しいといわれる道だけを選んでいくことは、とても労力や自制心のいることだけれど、間違いといわれる人を気軽に蔑めるという特権も持っていると思っています。でも、間違えたらそこで、価値はなくなってしまうんだろうか。
ふたりがそれぞれに見つけた星のように、ただ自分にとって価値があるのなら、一般のものさしでの正しさや間違いは、それこそ無価値になってしまう、と思うのです。
そんなことを、感じさせられました。
おすすめ、ありがとうございました。他の本も、時間を見つけて読んでいこうと思います。
最後に、これまでこのメモではタイトルからAmazon.co.jpにリンクを貼っていましたが、その手間がメモを書くことを遠ざけてしまっていたので、これからはリンクは貼らないつもりでいます。余裕ができたときには、またリンクを貼るようにするかもしれません。
もしご不便でしたら、お気軽にお知らせください。できるだけ、対応してみます。
(2008年12月に、これ以前のメモもタイトルからAmazon.co.jpへのリンクを削除済み)