メモ
2008.11.05
 「鉄塔 武蔵野線」を読了しました。

 語り手が少年時代を追想するかたちでつづられるこの小説。実際には創作なのだけれど、その内容は、鉄塔が大好きな少年が自宅ちかくの鉄塔から送電線をさかのぼり、最初の鉄塔までたどりつこうというもの。
 近所の鉄塔に番号板がつけられていることを発見し、鉄塔ひとつひとつに番号がふられているなら1号鉄塔があるはずと考えついた小学5年生の見晴は、2学年下のアキラを引き連れて鉄塔 武蔵野線をたどる冒険に出発する。

 この小説は、見晴とアキラが鉄塔をたどっていく様子を丁寧に描写することでつながっていく。500枚以上の写真にもささえられてその描写の綿密さは一般の小説から群を抜いているけれど、鉄塔を追っていくという工程そのものは当然ながら至極単調なものだ。そうなるとストーリーそのものも単調になるのではないかとあやぶまれるのだけれど、不思議とそういうことがない。

 その理由はすべて、見晴とアキラの存在のためだ。鉄塔の構造を詳しく解説しているからでも、ひとつひとつの鉄塔を見つけるたびにドラマがあるからでもない。
 ただ鉄塔をたどっていくなんてことは大人は考えもしないし、思いついたとしても実行にうつすだけの向こう見ずさはもう失ってしまっている。
 「1号鉄塔のそばには秘密の原子力発電所があるんだ」という見晴の発想も銀色のメダルも、アキラが自分で自分にみつけた役目や秘密の合いことばも、小学生だけが持ちえる常識という垣根を持たない世界だ。
 真夏のうだるような暑さのなかをただひたすら鉄塔だけを追いかけて走っていく。そんな思い出は、生涯のうちで小学生という時間にしか持ちえないものだ。

 見晴やアキラの探検のようすを読み進めるなかで、退屈することはあるかもしれない。けれどその退屈はそのまま、見晴やアキラが鉄塔を追い続けて鉄塔に飽きてくる、その気持ちと通じている。読者は見晴やアキラに共感することはあっても、彼らを外側から見て彼らの行為に退屈するということはないのだ。

 「鉄塔 武蔵野線」は鉄塔をメインモチーフにした鉄塔小説だけれど、それだけでは珍しい小説ではあっても人の心をこうも惹きつける小説にはなっていなかっただろうと思う。人の記憶や心を丁寧にひもといてえがきだす銀林さんの筆力があってこそ、「鉄塔 武蔵野線」は魅力的な夏の探検物語として生きてくる。
 あるいは、人々が気にとめることのない鉄塔という存在に幼いうちから気づくような目を持っている方だったからこそ、子どもの心をそっくり小説のなかに再現するなんてことができたのかもしれない。
2008.11.03
 昨日の夜に「後巷説百物語」を読了しました。

 京極夏彦の作品を読むのはこれが初めてで、読み出す前は京極作品は軽い口あたりの読み物だと思っていました。私には、妖怪小説ということから京極作品をファンタジーの一種だと思っていたふしがあり、それが“軽い”と感じる原因であったと思います。
 読みやすい文体に軽妙な翁の語り口、はっきりとキャラクター付けされた登場人物。思っていたよりも骨組みのしっかりした小説だとは感じましたが、それでもやはり娯楽小説だという感はぬぐいきれないまま読み進めていました。

 その手ごたえが変わったのは6作品収録されたこの本のなかば過ぎ、4作目の「山男」のあたりでしょうか。読了後に知りましたが、この百物語シリーズの前2作では翁が主人公であったということで、その翁が語り部の立ち位置から動き出し自らの思いを垣間見せる段になってようやく、この物語は動き出したと言えるのかもしれません。
 そして「山男」以降の「五位の光」、「風の神」と読み進めて感じたのは、翁の過去に対する切実な思いの強さでした。翁の過去とは、惹かれながらも決して並び立つことはかなわない又市という男とともにいた時間のことです。又市に対する翁の思いの強さが、この作品中の機軸となっているように思えるのです。

 生きることに切実であった翁の姿とその翁が自らに似ていると感じた与次郎という青年。残念ながら百物語シリーズの1作目と2作目を飛ばして読んでしまった私は確かな感覚として実感できたわけではありませんが、この「後巷説物語」は翁から与次郎に語り部の視点が受け継がれていく物語なのかなと感じたのです。
 やはり、シリーズを飛ばして読むなんてことはしてはいけないなと改めて実感しました。折をみて、前2作と「前巷説百物語」も読んでみようと思います。
2008.10.29
 昨日の夜に、「少女コレクション序説」を読了しました。あとがきで著者本人が言っている通り読みやすい本で、思っていたよりも短い時間で読み終えてしまいました。
 あたり前の話ですが澁澤龍彦の知識量にはとうてい及ばない教養しかない私は、知らない人物や小説などをネットで調べながら、あるいはその時間もおしいほど面白い流れのときには前後の文脈から想像しながら、読み進めました。知識を増やすための読書というよりは、完全に読み物として楽しませてもらいました。
 あまり深入りする気のない世界ですが、たまにふれる分にはおもしろそうです。澁澤氏のエッセイは、また気の向いたときにふらりと読んでみたいと思いました。

 今は「後巷説百物語」を読んでいます。京極夏彦の存在はもちろんずっと知っていましたが、なんとなく避けて通っていて読むのは今回が初めてです。ちなみに「後巷説百物語」を買ったのは近年の直木賞受賞作を読んでみようと思いたったためです。そんなきっかけでもなければ、京極作品には手を出さないままだったかもしれません。
 収録されている6作品のうち、1作目の「赤えいの魚」を読了しました。読み出す前の勝手なイメージとして、京極作品はわりと軽いのかなと思っていたのですが、予想していたよりもずっとがっちりとしたつくりでした。好きな作家にはならないかもしれませんが、ちょっと食わず嫌いしすぎていたかなあと思います。

 推薦にて「秒速5センチメートル」と「愛の生活 森のメリュジーヌ」をおすすめいただき、ありがとうございます。
 「秒速5センチメートル」は友人からもすすめられていた本ですし、私は「ほしのこえ」が大好きで、新海さんは気になるクリエイターです。
 「愛の生活 森のメリュジーヌ」はまったく知らない本に知らない作者です。楽しみに読ませていただきますね。
 来月にルミネカード10%オフの時期が来るようなので、そのときにまとめて買ってこようと思います。
2008.10.24
 毎年、10月には読了本の冊数がやたらと増えます。読書に対する集中力が増すとかスピードがあがるというよりは、読みやすい本をがつがつと読みたくなる時期みたいです。

 出先にて読みさしの本を忘れたことに気がついて、急遽石田衣良さんの「灰色のピーターパン」を買いました。私にとって石田衣良といえば「娼年」で、IWGPシリーズは文体や雰囲気のあまりのちがいっぷりに、毎回違和感すら覚えながら読み進めます。
 レビューなどではマンネリ化がちらほらと指摘されていますし、私自身も初期の作品の方が好きだったなあと感じてはいますが、この安定感はかえって読者にも作者にもいいものなのではないかなと思っています。

 忘れていった読みさしの本は、澁澤龍彦の「少女コレクション序説」。ずいぶん前に、なにか澁澤龍彦の書いたものを読んでみたくなって買ってあったものです。ようやく手をのばせました。
2008.10.23
 結局、一昨日メモを書き終えたあとに夜ふけすぎまでかけて「弱法師」を読了してしまいました。味わう余裕もなく、与えられる甘い水をただひたすらにむさぼり飲むような読書でした。
 可穂さんの書く文章は推敲が練りに練られて洗練され、するすると身のうちに入ってきます。この読みやすさは一語一語にまでなされた可穂さんの心配りの結果で、読みやすいだけで中身のない小説とはちがいます。それは、読了後にいかに「弱法師」という小説が自分の内側を占めているかではっきりとわかります。

 可穂さんの描く愛はいつでも捨て身の愛で、相手とともにこの世界からこぼれ落ちていってもかまわないという愛です。健全さや正しさに価値基準を置くなら、非難の嵐にさらされるような愛。あるいは我が身を一切ふりかえらないその様に、同情されるような愛でもあるかもしれません。だからいつでも痛々しくて、私は読んでいる間じゅう、泣くことをおさえられません。涙というかたちにはならなくても。

 それでも、(力強く「それでも」と反駁せずにはいられない思いに駆られるほどに)作中に登場する人々は決して不幸ではないし、私は読後に必ず希望や光りを感じられるのです。その希望は救いがあるという希望ではなく、それでも愛しているや、それでも愛してよかったというような、絶望や苦しみをすべて抱えた希望です。
 どちらがより人にやさしい希望なのか、どちらが健やかでまっとうな希望なのか、それは議論の余地もなく救いがあるという希望なのだと思います。ただ、そこからはこぼれ落ちてしまった者、そんな希望にはまぶしすぎて手をのばせないという人々に「それでも」といってさしだされるのが、可穂さんの書く希望なような気がするのです。

 相手も自分も殺してしまうような嵐のような愛を知らずに生きてゆくことは、決して不幸なことではありません。けれど同時に、そんな愛を知っている可穂さんのえがく人々は皆が皆、これ以上はないというほどに満ち足りているように見えるのです。

 怪盗クイーンシリーズは前後編がそろうのを待っていたのですが、結局後編が発売されてから五ヶ月も経ってからの読了になりました。