「ゆくとし くるとし」を読了しました。おすすめ、ありがとうございました。
だれもが落ちてしまう可能性を持っているちょっとしたささいな穴。そこに実際につまずいてしまう人がどれくらいいるのかわからないけれど、表題作の「ゆくとし くるとし」にも、同時収録の「僕らのパレード」にもそんな人々が登場する。ちなみに、私は自身もそういうひとりだと思っている。「ゆくとし くるとし」の語り手、トリコの言うことが私には少しだけ理解できる気がする。
「ゆくとし くるとし」でも「僕らのパレード」でも、読後に残るものは「これでいいという肯定感」だと思う。幸せでも希望でもない。そんな大げさなものではなくて、今のままでいいのかもな、間違っててもそのときはそのときだ、と思える自分への肯定感。
それは見方によっては開き直りかもしれないしお気楽思考かもしれないけれど、それは悪いことではないはずだ。深刻な顔で悩んだからといってなにが見えるわけでも、諦めて閉じこもったからといって平穏が手に入るわけでもない。
人によってはそんなことあたり前じゃないの、と呆れ顔をするかもしれない。けれどそのあたり前に気づくことも、気づいてから心をオープンにして受け入れることも、難しい人には難しいのだと思う。その速度は、人によってばらばらだ。本当に、てんでばらばらだ。
私は残念ながらそんな肯定感を手放しに自分のものにすることはまだできなくて、これからもしばらくの間ああだこうだと考え続けるのだと思う。けれど、それも含めて仕方ないよな、とは思っている。そういう自分のやり方は人に否定されやすくてしょっちゅうへこたれるけれど、こういう本に触れると、自分はその自分のやり方に納得していたのだということを思い出す。
さて、推薦で本をまたおすすめしていただき、ありがとうございます。どちらも知らない作家さんです。
買ったまま長いことほったらかしの本が溜まっているのでそちらもできるだけ読んで行きたいと思っていて、すぐには読み出せないかもしれません。気長にお待ちいただけるとうれしいです。とはいえ、それほど時間はかけないようにしようとは思っています。
「ゆくとし くるとし」も、おすすめありがとうございました。
yom yomのvol. 7を昨日の夜に読み終り、そのままおすすめいただいていた「やがて目覚めない朝が来る」を読み出して今日読了しました。
おすすめいただいたときに大島真寿美さんという作家名に聞き覚えがあるという話をしたのですが、聞き覚えもなにもyom yomに何作か寄稿してらっしゃいました。作品を読んでたのに作者名を覚えていなかったなんて、ちょっと恥ずかしい話です。
やがて目覚めない朝が来る。「いつか」のように曖昧さを残さない「やがて」という言葉には、今とつながっている先の時間に必ずあるのだというニュアンスがある。
それは絶望だろうか。目覚めない朝は必ずやってくる。人にとってそれは絶望だけだろうか。
大島さんの書いたこの小説のなかで、それはちがう。やがて目覚めない朝が来ることは、ただ事実である。事実以外の要素もたくさん持っているかもしれないが、事実以上の恐ろしいなにか、威圧的ななにかではない。
作中の視点である有加。彼女はその祖母である蕗さんと、その知人たちに囲まれて育ってゆく。作中で有加は、10歳から結婚を迎えるまでに成長する。なのでもちろん、祖母の世代の知人たちには亡くなってゆく人たちがいる。
けれど私は、この小説を読んで泣いていない。悲しみよりも、見送ったという感慨の方が強い。人の死は大きな出来事だけれど日常でもある。年を経れば経るほどある種の親しみが起こる。
強い悲しみを感じない理由のひとつに、大島さんが無遠慮に登場人物たちを暴くような書き方をしていないからということがあるだろう。
視点はあくまで有加に固定されている。それぞれが有加に見せた顔しか読み手は知らない。癖のある人たちばかりだから存在感はばりばりにあるけれど、内心でなにを本当に思っていたのか、そんな所は一切明かされない。だれも彼ものすべてを知ることはできない。語られないことも、曖昧なままの過去もある。
けれどそんな距離感のなかで書かれているからこそ、それぞれの生を俯瞰するように、目覚めない朝までのそれぞれの歩み方として彼らの日々を見ることができる。そして、そんな見方から浮き上がってくるものがあった。
それは、生きて、人とつながって、その人が自分のなかに残ってゆくという大きな流れ。人はひとりではなく、自分は誰かではない。どちらも大切な事実で、そうやって生きてゆくことで自分が生まれてゆく。
読みやすい文章に乗せられたままするすると読み続けて、最後の一文に私は強くそう思った。悲しみにとらわれ過ぎたまま読んでいては、あるいはそういう書き方をされていたら、きっとここに気がつくことは出来なくて、重みはあるけれど暗い印象の話になっていただろう。これはそういう小説ではない。死までもひっくるめて、人が生きている小説だ。
読み終わった今よりも、しばらく後になって思い出したころにより一層の大きな存在感を放つ本になっていそうな予感がする。
おすすめ、ありがとうございました。とてもいい読書でした。大島さんの本は他にも読んでみたいと思います。
結局、おすすめ頂いている本よりも先にyom yomのvol. 7を読んでしまうことにしました。もう9月だというのにまっ黒に日焼けしたYonda?パンダが表紙のyom yomを読むのはなんとなく罪悪感です。今月末にvol. 8が出たらすぐに読もうと思います。
「センセイの鞄」がどうにもしっくりこなかったので自分は川上弘美は苦手なんだろうと思っていましたが、yom yomを半分ほど読み終えたところで一番印象に残っているのは川上さんの「ゆるく巻くかたつむりの殻」でした。流麗ではかない文体がうみだす世界はぼんやりとして、でも不思議な存在感がありました。川上さんのほかの作品も読んでみよう、という気になりました。やっぱり一作読んだくらいで諦めてしまうのはもったいないのだなとしみじみと実感します。
同じくyom yomに載っていた椎名誠さんのエッセイで、旅先で現地のことが書かれている本を読む“現場読み”。このエッセイを読んで真っ先に、一昨年の夏に香川県で宮部みゆきさんの「孤宿の人」を読んだことを思い出しました。これはまったくの偶然だったけれど、その嬉しさと楽しさははっきりと覚えています。現場読みは是非これからたくさんしてみたいと思っています。
ちなみに、このメモを書き出したきっかけも「孤宿の人」。あまりに書き留めておきたいことが多すぎて始めたのでした。
12月の沙々雪三周年に向けてコンテンツの充実を図っています。三周年当日にまとめて更新予定。ずーっと考えていたことだったのですがその手間隙にしり込みして避けていた作業です。でも、いい加減にしないと後が大変になるばかりだと思って。
少しでも楽しんでいただける便利なサイトにしようと四苦八苦中です。一周年には今のサイトデザインへの変更、二周年には私書庫の作成とやってきましたが、去年も夏から準備を始めたなぁと思い出します。
「対象喪失」を読了しました。
第一章から第六章、そして終章で構成される。そのうち第一章から第五章までは主にフロイトの学説に基づいて、愛情・依存の対象を失ったときの人の気持ちの流れを丁寧に解説している。対象喪失とはどのような流れで起こり、それが妨げられるとどのような害を本人にもたらすかという話に終始する。このあたりは対象喪失体験のある人、あるいは今その最中にある人にとってはうなずける内容であり、自分の心を整理してもらえるという意味で救いにもなる部分だ。
ただ、この本の主題は第六章にあると思う。第六章のタイトルは「悲哀排除症候群」。現代社会においては対象喪失体験を持つことができない人々があふれていると著者は指摘する。
失っても悲しくない程度の人間関係しか持たず初めから悲しみを回避しようとする。心から嘆き苦しんでいる人には「そんなことでは現代を生きて行くことはできない」と突き放し、悲しんでいる本人もまた対象喪失の悲哀が否定される世界ではきちんと自分の悲哀を消化していくことができない。それ以前に、自分が喪失を悲しんでいることに気づくことすらできない人々もいる。
その原因を著者はいくつか挙げているけれど、私の思うもっとも大きな理由は死や不幸、悲しむことを迷惑なこと、わずらわしいこととして排除したがる心理だ。なければない方がいいと思っている。けれど、そうではないと著者は言う。悲しみは悪ではない。悲しみを悲しめることは人として重要な能力だ。その通りだと思う。
私事だけれど、もう何年も前にずいぶんと傷ついて数年間その悲しみを引きずっていたことがある。逃げようにも逃げ場がなくて思い出しては泣きだしてをくり返したけれど、その結果ようやく気づけたことは、悲しめるのはそれだけ失いたくない大切なものがあったからだということだった。それはとても幸せなことなのだと、しみじみと気がついた。
悲しまなくていい代わりに大切なものがない、後で悲しむことを恐れて大切なものを全身全霊で大切にすることができない、マイナスもプラスもないゼロだけの日々を幸福だとは思わなくなった。この考えをつくるきっかけとなったその経験が苦しい思いであったことに変わりはないけれど、そこから多くのものを受け取れたことで、せめてものつぐないができたかなと思っている。
ご無沙汰してしまいました。日常生活の方がばたばた続きで、事務的に済ませられることではないので心の余裕もなく、二十日間以上の時間が経ってしまいました。ぼちぼち落ち着いてきたので、読書とメモ書きをこまめにしていこうと思います。最近はさぼりがちだったので、できれば三日に一度はメモを書くペースにしたいところです。
7日に人間失格を読み終えてからようやくyom yomのvol. 6に手をつけて、さらにStory Sellerも読み終えました。yom yomはこの春に発売されたもの…もっとはやく読むつもりでいたのに、ずるずると夏の最中の読書にしてしまいました。
Story Seller、覚悟はしていましたがとても若い読者向けの話ばかりで、第二段が出てもおそらく読まないかな、と思います。買ったときのメモにも書きましたが、今回はStory Sellerという素敵な誌名と、いい物語を読者に届けようという企画者の心意気を買ったつもりでいます。
推薦にて、「やがて目覚めない朝が来る」と「ゆくとし くるとし」をおすすめいただきありがとうございました。「やがて目覚めない朝が来る」の大島真寿美さんは、なんとなく聞き覚えがあると思ったら、書店で見かけた「水の繭」という本が気になっていた作家さんでした。大沼紀子さんは初めて聞く作家さんです。
知らない本や知らない作家さんを教えていただけるのは本当にうれしいです。もうオンライン書店で購入して手元にあるのですが、今は「対象喪失」という新書を読んでいるところなので、まずはこちらを読み終わったらになります。さらに、yom yomのvol. 7を読まないままvol. 8の発売日まで一ヶ月を切ってしまいました。できればもうyom yomの積読はしたくないので、先にyom yomのvol. 7を読んでしまうかもしれません。ご了承いただければと思います。
今読んでいる「対象喪失」は、家族・恋人・友人など、愛情・依存の対象である人と死別したり見放されたときの人の心の動きを追って、悲しむことの仕事について語っている本です。1979年初版の古い本なので学説的に見て今とは違う点などもあるのだろうとは思いますが、自分の経験と照らし合わせながらもう一度自分の対象喪失体験を振り返る、という意味ではとても面白い本だと思います。
きちんと悲しまないで誤魔化してると、あとでまた悲しみなおさなければならなくなるよ、という話です。ぎくりとした方、よろしければぜひ。まだ半分ほどしか読んでいませんが、おすすめします。