メモ
2008.08.08
 「人間失格」を読了しました。太宰を読むのはこれで三冊目ですが、そのなかでは一番読みやすかったように思います。

 人間として上手に生きられないというのは深く理解できる感覚だ。だれだってきっとそうだろう。
 この一編の小説のなかで、葉造が自分は人間を理解できない、自分は周囲の者とは違うと深く思い知らされる場面はいくつも出てくる。そのなかでもっとも印象深く、そして共感したのは堀木の家で堀木の老母への態度を目の当たりにしたときのものだ。
 自分と同じようになんの区別もなく生きているだけと思っていた者が実は分別を持っていた、のべつまく無しに道を踏み外しているのではない、理性的に限度をわきまえた上でだらしなく生きているだけだった、自分のようにほんとうになにもせず逃げているのではなかった。
 「こいつは自分の同類だ」というしなだれかかりを鋭くはねのけられるという、底なしの峡谷のような孤独。

 小説の登場人物に対して、時には自分に対しても、生き物として欠陥があると感じることがある。それは、太宰の書いた「人間、失格」ということばとはまたちがうけれど、似た次元にあるような感じがする。

 ただ、年月が経てば、人はそれでも生きるのだと否応なしに知ってしまう。できればそれを知る前、小学生や中学生のころに、読んでおきたい本だった。
2008.08.01
 ぐんぐん読み進めて、「ノスタルギガンテス」を読了しました。

 読み終わって、なにも残らない、空虚だけが残る小説だった。たとえば絶望とか憎悪とか、やるせなさとかむなしさとか、そういうものがずっしりと残る小説はたくさん読んできた。けれど、ただからっぽだけが残るというのは、初めての経験かもしれない。

 主人公の櫂は、忘れることができないということを恐れている子どもで、これは精神年齢が高いとかっていう話ではなく、きっと人として(普通の生活を送るための人として)、あまりにも重大な欠陥だと思う。
 忘れたくないという欲求は、もしかしたら死にたくないというよりも大きな、人間の持つ本能じゃないかと思うからだ。根源的なところで周囲とちがう人はうまく生きられない。生き方のうまいへたは、世界が決めるものだからだ。

 櫂の持つ意識と見えている世界はあまりにも他のすべての人間とかけ離れていて、だれも櫂の見ているものが見えない。櫂が子どもだからということもあって、櫂が自分とちがう世界を見ていると想像できる人間すらいない。そんなその他の人々に、櫂はちがうんだ、と叫ぶしかできない。間違っているのに、そうじゃないのに、偽物なのに、伝わらない。孤独ではなく孤立。そんな場所に櫂は立ち続けているし、これからもそうだろう。

 どこでもない場所で起こったこの世界では起こりえなさそうな出来事。望みやしなかったその渦の真ん中に置かれた櫂の、これはどんな物語なのか、どの言葉を使っても私には説明できない。

 おすすめ、ありがとうございました。とても大切な本がまたできました。
2008.07.30
 推薦にておすすめいただいている「ノスタルギガンテス」、昨日から読み始めています。

 主人公の男の子の一人称で進む文章はとてもよみやすくて、そしてあけすけな毒と悪意にあふれている。正義と対立する排除されるべき毒ではなく、正義となんら変わりのないひとつの感情としての悪意。
 悪意も善意も持ってしまったんだから仕方がないじゃないか、というのは間違いではない。間違いではないけれど、そう言ってしまうと誰もが困ってしまう。悪意を持つことを悪にしないで、世界は回れない。だから、善意はよいことで悪意はだめだから持っちゃいけない、ということになっている。けれどそうやって理屈のために現実を否定することを主人公の少年は、むしろ子どもはしない。だから、黒く染まっていないありのままの悪意がそこにある。死体、廃墟、マネキン、そういう言葉を人に当てはめて使うことに罪悪感を持たない。なぜならそれが彼にとっての事実だからだ。

 人は自分と同じものを見ていない。これを実感することは、自分のなかにひとつ絶対的な諦めを抱えることだと、私は思う。その時期として、少年の年頃はたぶんまだ早かったのだろう。けれど、早かったからといって一度持った実感を消し去ることは、できやしないのだ。受け入れて、どうやっても諦めるしかない。
2008.07.29
 長すぎるほどの時間をかけてしまいましたが、「魂の光景」を読了しました。なかなか味わうことのない、特殊な読書体験をしたと思っています。

 生まれた年に60年以上の隔たりがある筆者と自分に、表面的に明確な共通項があるとはとても思えない。それでも、筆者の語る言葉や見えているものは不思議なほどすんなりと、私のなかに実感として了解することのできるものばかりだった。筆者の言葉を通して追体験してる感覚も何度もあった。それは単に日野さんの文筆力によるものかもしれない。確かに、とても的確にものを表せる人だと思う。無理な言葉の押し付けで事象や意識、思考を捻じ曲げてしまわない、そこにあるものに対してとても忠実な書き方をする人だ。
 けれど、それだけではない、と強く思う。どこか私には日野さんと通じる場所があるのだと(それが思考なのか意識なのかはわからないけれど)、そう信じたいと思われてやまない。

 あれこれ書くよりも、気になった部分を覚え書として引用しておく。
 182ページ 1行目より。
彼らのほとんど無意識の非社会性(意志的な反社会性ではなく)は、人間関係の過負荷(オーバーロード)から人類の脳を解放する、というネガティヴな進化の役割を果たしつつあるように、私には見える。

235ページ 5行目より。
 つまりこの文章は、夜明け方の夢や真っ昼間ふっと落ち込む意識の空白を除いて、だらだらと続く日常的、生活的、単純な因果律的な時間の連なりと空間の広がりを、写実的に記述してそれをリアリズムと呼ぶそのいわゆるリアルさを、絶対に「ほんとうのこと」とは考えも感じもしない人間の文章である。

241ページ 14行目より。
無意識なるものの意識化こそ文字の使命

242ページ 3行目より。
「書くことは、話し言葉の領域とは違う領域からやってくる」
2008.07.07
 読む本と雑誌が溜まっていて、ちょっと順番を整理しておこうと思います。ということで、以下は自分用の覚え書です。自分の目にしかつかないところに書いても忘れてしまうので。

 今読んでいる「魂の光景」のあとは、推薦でおすすめいただいた「ノスタルギガンテス」と「人間失格」。そのあとは、「yom yom」のvol. 6とvol. 7を続けて読んで、雑誌つながりで「Story Seller」を(というか雑誌はできれば積読したくない…なかった)。
 ただ、「ノスタルギガンテス」は入荷待ちの状態だから「魂の光景」を読み終えるタイミングによっては「yom yom」か「Story Seller」を先に読むことになるかも。
 あと、これはまだ買っていないけど「スカイ・クロラ」シリーズの番外編「スカイ・イクリプス」は早く読みたい。本編は読むのがもったいなくて新刊が出てもなかなか読み出せなかったけど、完結したことで気が抜けたのか、気構えずに読みたいと思うようになった。でも買うのは、ルミネカードが10%オフセールをやるときだから…いつになるかは未定。
 ここまで読み終わったら、あとは小説と小説以外をバランスよく読んでいこう。

 「魂の光景」、こんなに知れてよかったと思う本は久しぶり。2日のメモでも言ったけれど、ところどころに共感してやまない言葉や感覚が書かれてある。闇を直視はしない、見えたものそのままに言葉にしたりしない、ごまかしと曖昧さを上手に使う。それはとても普通のことでそれができるのは重要なことなのだけれど、真実やありのままの世界の在り様を見てしまった人にはもうそれができない。
54ページ 14行目より引用。
「狂気とは世界のあるがままの姿を、あまりに正確に映す意識のことにちがいない。不正確になればなるほど、人は正気になる」

63ページ 2行目より引用。
 根源的なリアリティーを正確に感じとり表現するためには、あえて不明確であることが必要であるにちがいない。


 「赤い月」という短いエッセイについて。
 世界が自分に害をなすことがあってもそこに悪意はないと思いたいし、生きてゆくということは希望だと信じていたい。誰だってそうだろう。そうしなければ、世界に警戒しながら、生きることはいやらしいものだと感じながら歩いていかなければならない。自分は世界から嫌悪され、生きることは泥のように気持ちの悪いものだと信じていたい人など、たぶんどこにもいない。そして、大抵の人は(私も含めて)、人は世界と生きることに対する明るい思い込みに成功する。生まれたときからずっと、周囲がそう信じさせようとしてくれ自身もそう信じたいと強く思いながら成長する。
 けれど日野啓三というひとには、あるがままの世界がどうしても見えてしまうのかもしれない。たしかに私はこの日野啓三というひとの感覚に共感することが多々あるけれど、それでも、彼ほどの深い暗さは知らない。なぜ彼の視野はこうも「普通の人」と違うのか、それはとても理解できない。
 この世界で安らかに生きるには、きっと彼はよく見えすぎるんだろう。