『ウェブ進化論』、読了しました。
発行から3年も経って読んだのはもったいなかった。ものすごいスピードで突き進んでいるウェブ世界をとらえたの本なのだから、もっとタイミングを意識して読むべきだったと思う。いい本は時間が経っても色あせないけれど、情報にはカビが生えるものなんだなぁなんてことを思う。
グーグルを中心に、今ウェブで起こっていること、これからウェブで起こるはずのことを書いた新書。もし読者がウェブの住人であるなら自分の行動や経験と照らし合わせながら興味深く読めるはずだ。もしインターネットに詳しくない人なら、その特異性の一端くらいは見えるんじゃないかなと思う(私はどっぷりとウェブの世界にひたっている人間なので、これは想像でしかないけれど)。
私はとかく変化を嫌いがちで過去へ過去へと戻ろうとしてしまうけれど、それもいい加減にしなければいけないのだろうなと、読んでいる間中ずっと考えていた。新しいこと、未経験のことをネガティブに判断するのは老いだというような文章が出てくるけれど、私は確かに自分の感覚は老いているなぁと思う。閉じこもるのは楽だけれど、それは逃げでしかないというのもまた事実だ。
とにかく面白い読書だった。3年の隔たりがなければもっと面白かっただろう。本当におしいことをした。本にも旬があるということを初めて肌で実感した。
続編にあたる(らしい)『ウェブ時代をゆく』は、昨日のうちに買っておいた。普段、本はルミネの10%オフの時期を狙ってまとめ買いするのだけど、この2冊は続けて読んでおきたくて。
『ウェブ時代をゆく』のあとにさらに新書を2冊ほど読んで、そのあと沙々雪のおすすめ本を読もうかなと考えています。
大学の研究に少し関係がありそうだと思って、今『ウェブ進化論』を読んでいます。もう3年前の本なんですが、とても興味深い。
私がウェブの住人になってもう10年近くになるのですが、その10年の間にウェブは大きく様変わりしています。そのことに対して私はさまざまなシーンで違和感を感じてきたんですが、それをはっきりと分析したことはありませんでした。その違和感の発生理由であるウェブの変化の過程が、わかりやすく的確に書かれている本です。
私がウェブの世界を歩き出したころは、いい意味でも悪い意味でもウェブ上に統一性はなかった。個々人がつくるサイトが最小単位で、同時に最大単位でもあった。規模の大小こそあれひとつひとつのサイトは互いに対等で、その上位に存在して個々のサイトを管理するものはなかった。
けれどブログが登場し、HTMLを勉強してデザインを一から考えてウェブサイトを構築するという手間は必要なくなった。自分を表現するためには自分の手で白い紙の上に罫線を引くことから始めなければならなかったのに、今ウェブの世界は自由に書き込めるノートであふれている。人の表現の場がどんどん統合化されていく。方法は簡易になり、企業が自己表現のツールをいくらでも提供してくれる。
そしてその便利さと引き換えに、ブログひとつひとつはすべてブログシステム供給会社の管轄に属すことになる。そうなると、多かれ少なかれそのブログシステム供給会社の風潮ややり方に左右されながら、ブログという自己表現媒体を扱っていくことになる。上に管理するものがいるブログという場で、本当に自由な自己表現になりえるんだろうか? 私にはどうしてもブログという場で自由に活動できる気がしない。ましてやmixiでは絶対に無理だ。だから私はサイトという形態で活動し続けている。
表現の場だけではない。ショッピングサイトは楽天に、本ならアマゾンに統一された。管理人たちが個々の自己所有物としてそれぞれ持っていた掲示板やチャットというコミュニケーションの場はSNSやtwitterに統合され、ひとつの企業の管轄下に置かれた。
統一化が進み、多くの人々が同じシステムの利用者でいる。完璧に区画分けされた四角い島のなかで暮らしているような窮屈な感覚。
また、自社のシステムをオープンにして下位の企業に利用してもらうという形式が増えた。パソコンでも携帯でもグーグル・マップのシステムが搭載されて、オリジナルの地図システムを利用しているツールはなくなっていく。インターフェイスばかりがどんどんと多様化して、実際のシステムの数は淘汰され統合され、減っているのではないか。これもやはり、雑然とした世界からの脱却だ。
私は何に関しても保守的な考え方の人間で、まだブログもないSNSもない、原始のウェブの世界がなつかしい。2000年を原始のウェブというのは間違いだろうけれど、今よりもずっと混沌としていたのは確かだと思う。
私は沙々雪をオフの知り合いに教えることに強い抵抗がある。SNSなどでオフの知り合いとウェブ上でやりとりすることにも強烈な違和感がある。それはたぶん、オンラインの匿名性やアンダーグラウンドな感じをとても気に入っていたからだろう。ブログに抵抗感があるのも、すべてが整頓され白日のもとにさらされている感じになじめないからだ。沙々雪を始めるときも、ブログシステムを利用した方がずっとやりやすいのはわかっていたけれど、あえて旧態依然としたウェブサイトという形式で手間隙をかけることにした。懐古趣味だと思う。
それほどパソコンに詳しくない人でもネットをまったくやらないという人は少なくなった。以前はマニアのものであったネットは、どんどんオープンな場に改造されている。それは仕方のないことだし悪いことではないのだろう。
ただ、個人的な思いとして、ウェブの世界はオフとはまったく違う場所であって欲しい。オフの延長線上にウェブの世界があるのではなく、オフとは無関係の場として、ウェブには存在していて欲しい。薄暗さや雑然とした混沌が残り、またそれが許される場であって欲しい。未統一の混沌は、きっとこれからもどんどんそのスケールを小さくしていくだろう。けれど、私はできる限り、その混沌のなかに身を留めていたいと思う。統一と整頓ばかりがすべてでは、どうしようもなく寂しくなってしまう。
私はこれからも、ウェブ上でオフの知り合いとやりとりすることに違和感を抱き続けたまま、ウェブ上の私の姿をオフの知り合いの前にさらすことに抵抗感を持ち続けたままでいるだろう。
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本の感想とはまったく別の話となりましたが、どうしても書いておきたくて。
『生物と無生物のあいだ』、読了しました。
タイトルから、生物を定義づける興味深い考察を読めるのかなぁと思っていたのですが、技術的な著作というよりはエッセイに近い感じでした。著者である福岡さん自身の研究生活だったり、歴史的大発見の裏舞台だったり。
新書というよりは、平易な読み物として楽しむ本なのかもしれません。そういう意味では、生物が苦手が人のほうが読んでみて面白いのかも。私は教育科目のなかで生物が一番苦手で、タイトルでなんとなく敬遠気味だったのですが、なんの問題もなく読めてしまいました。
脚色とまではいかずとも大仰な書き方をよくされる方のようなので、書かれていることすべてを鵜呑みにはできません。それでも、面白く読める本です。軽く楽しめる読み物を探してるときにおすすめ。
しばらく前から大掛かりな部屋の片付けをしていて、その一環として中高時代の教科書を処分してしまおうと整理していたときのこと。興味のある著者の名前だけメモにとっておこうと、現代文の教科書をぱらぱらめくっていました。
読んだ覚えのあるものもあまり記憶に残っていないものもさまざまでしたが、そのなかで向田邦子さんの随筆2本が不思議なほどくっきりと記憶に残っていました。特にそのうちの1本は日常生活のなかでもよく思い出すことのある話で、ああ、向田さんの文章だったのかと改めて知りました。まだ向田さんの本は読んだことがないのですが、興味ばかりがますます強くなってきます。
他にも、最近の読了本や積読本の著者の著作が載っていたりして驚いたり。そうやってざっと目を通した現代文の教科書はやっぱり手放しがたくなって、放り込んであった押入れから本棚に移してとっておくことにしました。
あと、ご案内のページを中心にちらほらとページを編集しました。少しでも役に立つようなサイトにできればと思います。
読まなきゃ読まなきゃと言い続けていた大学の課題図書をようやく読み終わりました。3月いっぱいという期限だったので、1日遅れの読了です。
例として挙げられるプログラムを読解するのがめんどうになって一度放り出して、そのまま期限ぎりぎりになってしまいました。でも結局、登場するプログラムのほとんどは理解できてません。概念だけはおおづかみに把握できたかな、というところ。
プログラミングをするときはこういうところに気をつけなさい、という本です。沙々雪に来る方のなかにプログラマーがいるかはわかりませんが、わかりやすいプログラムをなかなか書けないと悩んでる方や、凝ったプログラムを書くのが大好きなんていう方は、一度読んでみるとおもしろいかも。
次はひとまず、『プログラミング作法』からの逃避で読み始めてもうほとんど読み終わりかけている『生物と無生物のあいだ』を読みきってしまおうと思います。次に読みたいのがyom yom。沙々雪でのおすすめ本がたまってますが、雑誌はなるべく積読したくないので先にyom yomを読ませてください。
あと、以前にも言った気がしますが今年は詩を読む年にしたいなと思っています。新書など、小説以外の実用書も読むというのは去年から継続。なるべく幅広い本に触れたいなぁと思います。