「魂の光景」、じっくりと読み進めています。感性をまるきりそのまま言葉にしているような文章で、ゆっくりと自分に染み込ませるようにして読んでいます。
10以上のエッセイが収録されているなかのまだ2作目なのだけれど、1作目の「焼け跡について」というエッセイ。こんなにも年代が離れた人の感性や心を理解できる、と言ってしまう自信はないのだけれど、それでも、自分は著者と同じ感覚を持っていると思う。どうしようもなく、そう感じてしまった。
人間的であること(もっと単純に言ってしまえば人間自体)がもっとも自分が親しむべきものである、という考えを私はどうしても持てない。人間嫌い、というのとも違う。ただ、人間を特別視することができない。それは相対的にみれば、普通よりも人間を大切にしていない、人間性に欠ける、ということになるのかもしれない。思いやりがない、人間関係に対してドライ過ぎる、と見ることもできだろう。それを否定する気はないし、否定できるとも思わない。
ただ、それほど人間を特別視する理由はなんだろう? 私には、自分が人間だからという以外の理由は思いつかない。人間を特別視しないということは自分を特別視しないということにもつながる。それはたしかに厳しいことだ。誰だって大なり小なり、自分は特別だと思いたいものだ。もし自分ひとりが特別にはなれないのなら、人間という全体がそもそも特別なんだと考えたくなる。さらに付け加えれば、自分が特別でないと認識するのは生き物として、とても危険なことなのかもしれない。生命の危険が迫ったとき、瞬間的に自分を守ることを優先できないかもしれない。
けれど、私はニュートラルな視点を持つことに慣れてしまった。一般的な人間性を得るために自分の考え方を変える必要を感じられない。人間が特別自分に近しいものだと考えることは、私にはもうできない。少なくとも今のところは。
以下は私信です。反転してお読み下さい。
> トキさま
こんにちは、おすすめありがとうございます。とてもいい本を紹介していただいて嬉しいです。
羽化する蝶々から見ていただいてたということで、なんだか恥ずかしいやらありがたいやらです。メルマガまで読んでいただいて、嬉しいです。自分の書いたものが誰かの記憶に残っている、それが思い出されることがある、というのはたまらなくうれしいことです。「赤い月」、なおさら大切に読みますね。
ちなみに、宣伝のようですが今も文章のサイトはやっています。メルマガもそちらで細々と続けています。羽化する蝶々とは書いているものもずいぶん変わりましたし、トキさんの感性も変わっているとは思いますが、よろしければお時間のあるときにでもお越し下さい。
http://swd.xtr.jp/galan-en/
ほぼ一ヶ月をかけて、「新版 きけ わだつみのこえ」を読了しました。ここ半月ほど新しいことに挑戦中で、そちらに注力していたら読書がずいぶんおろそかになっていました。一点集中しすぎるのは昔からの悪癖です。
今日、空いた時間を利用して欲しい本の整理をしていたらざっと数えて170冊ほどあって、やっぱり本は毎日きちんと読んでいかないととても間に合わない、と再確認しました。同時に、読書熱も低温から平熱程度に復活したので、来月はもう少しまともな読書生活を送れると思います。
ちなみに、積読本がおよそ80冊あるので、未購入の170冊とあわせて今読みたい本は250冊ほど、ということになります。きっとこれらすべてを読めるのは、どんなに早くても三年以上先だと思います。無理せず気長に行こうと思います。でも、あんまりのんびりしすぎるとフラストレーションが溜まってしまうので、コンスタンスに。
戦争というのを意識したのは中学生のころのこと。終戦記念日を覚えたのもそのころで、なにがきっかけだったのかは残念ながら覚えていない。ただ、それからずっと、私にとって戦争というのは考えるべき大きなテーマのひとつであり続けている。
「きけ わだつみのこえ」というのは、日中戦争から太平洋戦争にかけての時期に戦争で亡くなった学生の手記・手紙・日記などをまとめたもの。今大学生である私と同年代の方がほとんどで、とても距離を近く感じながら読んでいた。自分と似ている部分、あまりにも痛ましいと思う部分、その考えに驚いた部分(私のイメージしていた日本軍兵士の思想とは違った部分)、気になったところにはとにかく線を引きながら、ゆっくりと時間をかけて読了。
74名の手記が載っていて、もちろんそれぞれに考え方も書いていることもちがう。あとがきにもある通り、彼らが書いた手紙はすべて検閲の対象であったはずだし、言葉の額面がすべて彼らの考えたことそのままではないのだと思う。
それでも、何人かが共通して語っていることは、日本軍のために死ぬことはしない、祖国と父母やきょうだい、愛する人のためになら死んでゆけるということ。私には、何人にも共通して語られたこの思想がとても印象深い。これもやはりあとがきに書かれていることだけれど、「きけ わだつみのこえ」には、戦中の日本の軍国教育に染まりきってしまうことなく自分の思想と知性を守り抜こうとした人々の手記が特に集められている。だからこそ、このような考え方が多く見受けられるのだろう。
もう一つ、自分も創作に多少は係わっている人間なので、短歌や詩には強く反応していた。ひとりの学生の絵も収められているのだけれど、日記などとはまた違ったかたちで、当時の彼らの思想や思いが伝わってくる。
ようやく読み始められる「日野啓三自選エッセイ集―魂の光景」も、はからずも太平洋戦争時の話から始まっていた。偶然ではあるけれど、こういう流れのなかで読めてよかったと思う。
おすすめ、ありがとうございました。遅くなりましたが、明日から本格的に読み始めようと思います。
6月に入ってからようやく2回目のメモです。もうちょっとこまめに書きたいところですが…今読んでいる「きけ わだつみのこえ」が、感想を書くような本ではないことも一因かもしれません。
とはいえ、2日に読み終えた「ぼくのキャノン」の感想は、引き伸ばし過ぎました。でも、その分消化できた気もします。
購入したのが去年の9月で、そのころは気になる本をとにかく買い集めていた時期でした。しばらく後になって読もうかな、と手にとったとき、どうしても文章が受け付けなくて20ページも進まないうちに一度読むのを止めました。正直なところ、文体も確認せず買って失敗したな、と思ったのです。
それでもせっかく買ったんだから一読はしておこう、と再度手にとったのが先月のこと。やっぱり苦手かもしれない、とは思いつつ、あまり最初の印象に流されたくなくてなるべく以前のことを忘れて読み進めました。最初に読んだときに拒否反応が出たのは、登場人物紹介でのマンガのようなキャラクター付けに大きな原因があったことも自覚していたので、そこを読み飛ばして本文だけに集中するようにして。
まず読み始めでは以前ほど読むのが苦痛ではないと思い、50ページも読んだころには、面白いかもしれない、に変わっていました。
こらえきれないほど切なく、同時に大切な物語だと感じたのは、平和なはずだったキャノンの村に影が落ちだしたとき、そして、主人公である雄太の祖母・マカトが過去を語りだしたとき。特に、マカトと共に村を守っている樹王の存在の理由を知ったときにはとてもつらかった。
この小説では、さまざまな犯罪が起こります。私はどんな状況であってもそれを認めようとは思わないけれど、同時に、この小説に描かれているものを否定することはできません。それは、強者が弱者をいさめるような、平和な日本に住む人間が対立の理由も知らずに戦争は悪だとやみくもに言い張るような、そんな傲慢さだと思うからです。戦争を肯定は絶対にしないけれど、どんな背景があるのかも理解せず、経緯も知らず口を出すことはできないと、近頃は考えるようになりました。
「ぼくのキャノン」はとても痛ましくて、悔しくて、憤ろしくて、そして、それでも未来を見ている小説です。
語り口は軽妙で、主人公は子どもたちで、出てくる登場人物は確固とした役割付けをされていて現実味が薄く、苦手に感じる方は多いのではないかと思います。特に、普段重厚な小説を読みなれている読書家には(それは、自身も含めてです)。
けれど、役割付けされた登場人物を通して、リアルで生々しい人物像が透けて見える、少ないタイプの小説だと私は感じています。多くの人に読んでみてもらいたい本です。
さて、おすすめいただいている「魂の光景」ですが、書店に入荷されたと連絡がありました。月曜日にでも取りに行ってこようと思います。実際に読み出すのは「きけ わだつみのこえ」を読み終えてからになりますが、もうしばらくお待ちくださいませ。
「きけ わだつみのこえ」は、気に留まった部分に線を引きながら、ようやく5分の3ほどまで読み進めました。
ずいぶんご無沙汰してしまいました。特別なことは起こっていないのですが、うまく時間をとれずにいます。
「人間失格」をおすすめいただき、ありがとうございます。一年以上前に太宰と谷崎をまとめ買いしたことがあって(まだまだ積読状態ですが)、そのなかに「人間失格」も入っています。おすすめいただいた順番で読んでいるので読み始めるのはかなり先になってしまうと思いますが、どうかお待ちくださいませ。太宰作品のなかでおそらくもっとも有名な作品ですし、とても気になっている小説です。おすすめいただいたことで、ますます楽しみになりました。
「ぼくのキャノン」を読み終えたあとに、「ぼくのキャノン」の内容に触発されるかたちで積読本のなかから「きけ わだつみのこえ」を読み始めました。「ぼくのキャノン」は太平洋戦争の沖縄戦が根底にある小説で、「きけ わだつみのこえ」は戦没学生の手記を集めたものです。
この本には、もちろん編纂者の「こんな風に読んで欲しい」という意図はからんでいると思うので、そのあたりに賛否はあるのかもしれません。けれど、戦後60年以上が経ってからこんなかたちで読まれるという意識のない学生たちの、ありのままの言葉を読むことにこそ、深い意義を感じています。彼らと私の現在の年齢がほぼ同じということも、より現実味を感じる理由かもしれません。
ここ一週間ほどまともに本を読む時間をとれていないのでまだまだ半分ほどですが、たまに、おどろくほど近い考え方をしている人がいます。
推薦でおすすめいただいている「日野啓三自選エッセイ集―魂の光景」ですが、いつも利用しているウェブショップになかなか入荷がないので、地元の書店に取り寄せをお願いしようと思っています。図書館利用も考えましたが、「自分の本棚は私設図書館のようなものだから」という大学の教授の言葉を思い出して、きちんと購入することにしました。ずいぶん時間がかかってしまいましたが、もうしばらくお待ちくださいませ。
メールマガジンを見て気がつきましたが、今月は「yom yom」のvol. 7が出ます。しまった…vol. 6をまだ読んでない、と思ってちょっと愕然。できればvol. 7を手に入れる前に読みたいところです。「きけ わだつみのこえ」が終わらないことには話になりませんが。「きけ わだつみのこえ」は、できれば並行読みはしたくない本です。
あまりのメモの停滞っぷりに、あわてて書くべきことを書きつらねてみました。明日は「ぼくのキャノン」の感想を書きたいところ。ものすごく、いい本だったんです。
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を読了しました。
何といってもこのタイトル、そしてカバーのイラストにひかれてハードカバーが発売された当時から気になっていた本です。ただ、タイトルのインパクトが強すぎただけに、奇をてらった軽い小説なのかなと思っていたことも事実でした。けれど実際のとことはちっともそんなことはなく、いい意味で予想を裏切ってくれました。
ストーリーは多分に寓話性を含んだ筋立てで、決して骨太な現実味のある小説ではない。けれど、ちょっとした人物描写や感情の動きがやけに生々しい。主な登場人物は四人、そのそれぞれが確固とした(むしろ強すぎる)個性を持っていて、それが互いに相容れない。なにかを譲ることも、離れることもないまま一つ屋根の下にそんな人々が住んでいるのだから、そのつながりも本人たちも当然のように崩壊していく。それをただそのまま書いただけの物語。
ただ、解説でも触れられているけれど、描かれるのは終りとしての絶望ではない。これから始まるための絶望だ。
ハッピーエンドや明るいストーリーを否定する気はないけれど、マイナスのまったくないもの(小説でも実際の生活でも性格でも)は、どうしても嘘くさいと思ってしまう。そんな不自然な健全さではなく、かといって自己憐憫するために陥る絶望や必要以上に神格化された絶望でもない。希望も絶望も過度に肯定しない、拒否もしない、対等な視点で見ている小説は、素直に好感を持てる。