谷崎潤一郎の「刺青・秘密」を読了。これは、数年前に家族で行った旅館の書斎で刺青だけを読んでいて、いつかきちんと全編読了しようと思っていた短編集。
その旅館にあったのはもう何十年も前に発行されたような古びた大型の装丁本で、紙のケースに収められたものだった。とても雰囲気のある旅館で、今もはっきりと覚えている。一泊であわただしく通り過ぎるよりも、じっくりと何泊も湯治に行くような温泉場だった。
太宰を読んでいると、ちらりほらりと身に覚えのある感覚がでてくるけれど、谷崎でも同じことがある。ただ、それらの傾向はずいぶんちがう。ごく単純にいうと、太宰を読んでいると自分の女性的な部分が反応するけれど、谷崎の場合は男性的な部分が共感する。私は自分のなかに男性的な面の方を多くそなえているので、谷崎の方が、深く共感しながら読んでしまう。
谷崎潤一郎というと女性に支配され身を滅ぼす男の話が多いイメージだけれど、谷崎自身がマゾの気があったとのこと。確かに、好色なだけならこんな小説は書けないだろう、という話が多いと思う。まだ、「刺青・秘密」と「痴人の愛」しか読んだことはないので断言はできないけれど。
全編それぞれに魅力があって、どの話にも大なり小なり好きだなと思う部分があったけれど、一番共感しながら、というよりも納得しながら読んだのは、「異端者の悲しみ」だった。これは、谷崎の自伝的な小説とのこと。
あと、「母を恋うる記」。これは、最初の数行を読み出した時点で特殊な小説だ、という気がして、ことさらじっくり読んでいた。一番胸にせまる小説であり、谷崎の描写と文の美しさにしみじみとした。
「鉄塔家族」を読了しました。
デジタル放送用の鉄塔が立ち古い鉄塔が撤去されるまでの一年、その鉄塔の足元で暮らす人々の生活つづった物語です。
草花や鳥などの、自然描写が多い小説でした。だから、読み始めたころは「のんびりと田舎暮らしを楽しむ人々」や「スローライフを実践している人たちの満ち足りた生活」を想像してしまいました。けれど、実際にかかれていたのは、ただただ現実の日々の生活でした。やたらと重苦しいわけではないけれど、決して明るさや健やかさばかりではない、地に足のついた日々が続いていきます。
「鉄塔家族」は私小説なので、地に足がついているのはあたりまえ、とくくってしまうこともできるけれど、どうもそれはちがうように思います。解説でも触れられているように、作者の影である斎木もまた、作中では一登場人物として相対化されています。「私はどうした」ばかりで書かれた作者を中心とした小説ではなく、作者もまた登場人物のひとりにまで落とし込まれているのです。
私はほとんど私小説を読んだことがないので言い切ることはできないけれど、「鉄塔家族」の持つ現実味は、作者の願望などを入り混じらせないことからうまれた、私小説としてもめずらしいものな気がします。
ていねいにそれぞれの日々がつづられていくことでひとつの作品となっていて、その上登場人物たちが過去を回想することで物語は空間だけではなく時間の広がりも見せ、さまざまな人生をのぞき見ている気持ちになります。
見える人生にはもちろん順風満帆なものなどはなく、むしろ平凡とは呼べないものが多くでてきます。けれど、それでも読み終えたときに充足感や心地よさを覚えるのは、それぞれの人々が自分の日々に折り合いをつけ、責任を持った上で自由をまっとうしているから、そしてやはり、自然描写の多さからつたわってくる空気の気持ちよさにもよるものかもしれません。
読み出したときに予想していた、田舎に住んでいる人ってのんびりした人が多そうでいいよね、という小説では決してないことを実感し、そしてその上で、うわべばかりが整っている雑誌のような生活とはちがう、ふぞろいながらもありのままの充実を得ている人々を想い、その生活を想って、読了しました。
いろんな人に読んでみてもらいたいと思う小説が、またひとつできました。
ルミネで、ルミネカードを使うと10%オフになるセールをやっていたので本を買い溜めてきました。今積んである未読本は小説ばかりなので、コミックと小説以外の本(主に新書と岩波文庫)ばかりをあわせて20冊ほど。
理想は、小説と小説以外の未読本がそれぞれ20冊ずつくらいあって、1対1の割りあいで読んでいく状態です。この比率は、大学でお世話になっている読書家の教授からのアドバイスを参考に。今は小説の方が小説以外の本の3倍もあるので、まずは小説をたくさん読まないと、と思っています。
あまり型にはまってももったいないと思うけれど、方向性があるのは有意義な読書にいい影響を与えてくれると思っています。これは、沙々雪を始めて読書記録とメモをつけるようになったことから、実感済み。
今は、「鉄塔家族」をゆっくり読み進めています。どうにも呼吸がつかみづらくて決して読みやすい文体ではないのですが、とてもここちのいい空気を吸っている気分です。もうじき上巻が終わるので、下巻も無理せずゆっくり読もうと思っています。
沙々雪を始めてから、年に100冊の本を読むことを目標にしています。ですが、今年はどうも難しそうです。それならそれで、密度の高い読書をしたいなあと考えています。
昨日立ち寄った書店でふと目に付いた「Story Seller」という雑誌を買ってみました。
目に付いた理由は本多さんですが、買った理由は奥付の企画者のコメントでした。面白い物語を届けよう、という心意気を買った感じです。
作品を寄せている作家の半数は読んだことがあって、この雑誌に載っている小説の傾向は、今私が読みたい小説とはちがうかなと予想しています。それでも、編集後記のことばに打たれてしまいました。
「yom yom」も似た系統の雑誌だと思いますが、どちらかというと「Story Seller」の方が同人誌に近い気がします。まだ読んでいないので、なんとなくの感触でしかありませんが。
楽しみに読もうと思います。
今は、「鉄塔家族」という本を読んでいます。ずいぶん前に買って、ずっと読む機会をうかがっていました。きっとはずれないだろう、という予感のようなものがあって、だからこそいいタイミングで読みたいなと思っていたのです。
文体の呼吸の置き方が少し独特で、慣れるまで少し時間がかかりそうです。それでも、まだ第一章も読み終わらないうちから、とてもいい読書になるんじゃないかという確信が生まれだしています。
「ラッシュライフ」を読了しました。
伊坂さんは、現在乗りに乗っている作家のひとりに数えていいと思っていて、その分期待して読み始めたのですが、どうにも私には相性が合いませんでした。すべてが、どこかで見た作品の寄せ集めのように感じられてしまいます。
現実にはありえない登場人物、という表現はよく耳にします。登場人物に限らず、ストーリーでも、設定でも。そのとき、「ありえない」の意味はふたつに分けられると信じています。
現実として見かけることはないだろうけれど、どこかにはいるかもしれないと思える「ありえなさ」。小説という虚構と現実のはざまをうまく利用して立ち上がった、厚みのある登場人物。たしかに現実に存在するとは思えないけれど、彼の感情や思考にはきちんと人間くささがあって、読者は共感することも反感を持つこともできる。
もうひとつは、ストーリーに必要なキャラクターとして作者が立ち上げさせた登場人物。その存在はうすっぺらくて、裏側にはなにも無い。裏になにもない人間が、紙切れ一枚のような薄い体積しか持たない人間が、いるだろうか? いるわけがない。そんな「ありえなさ」。
伊坂作品の、少なくとも「ラッシュライフ」の登場人物は、全員が後者の「ありえない」登場人物に当てはまると思う。だから、読んでいて気持ち悪さがつきまとう。登場人物の裏には、彼ら彼女らのそれぞれの思考があるのではない。誰の裏を見てもすべて、作者の意図がひそんでいる。登場人物という等身大のパネルを、作者の意図という支えだけが立たせている。
たとえば「Deep Love アユの物語」とか「世界の中心で、愛を叫ぶ」なんかをきらう人たちのなかには、「人が死ぬ=感動作だから、作者はとりあえず登場人物を死なせればいいと思っている」という意見を言う人がいる。
私もこれに賛成なのだけど、伊坂さんはたぶん、「人の死=感動」という以外にも、方程式のパターンをいくつも持っているのだろう。驚かせるパターン、楽しませるパターン、同情させるパターン、ユーモアを感じさせるパターン。器用な人なのだと思う。けれど、器用さで厚みは生み出せない。だから、薄っぺらい寄せ集めに感じてしまう。読者の感覚をコントロールするためのパターンの集合体。私はそれを、小説とは呼びたくない。
映画でも音楽でも、技巧を凝らしただけのものは好きではありません。必要なのは読者や観客の裏をかく「騙し」ではなく、作者が自分の創作物に全身全霊で対峙することだと信じているからです。そして、その結果が陳腐な演出でも目新しくない音の積み重ねでも、そこから生まれてるくるどうやっても呼び表せない素晴らしいものが、創作物に触れるよろこびだと思っているからです。
作者の技巧を見せてもらうために、本を読もうとは思いません。
めずらしく、酷評になりました。読んでいて不快になった方もいらっしゃるかもしれませんが、自分の考えていることをそのまま書きました。