メモ
2013.03.20
 今日は、銀座で『インターミッション』、大森で『3.11 日常』と『フタバから遠く離れて』を観ました。
 それぞれにはっきりと方向のある映画で、すべてについて今書くには元気が足りない。もっとも深く食い込んだ『フタバから遠く離れて』についてだけ少し。

 『フタバから遠く離れて』は、廃校になった埼玉の旧騎西高校に避難した双葉町の方々の映画。2011年の秋ごろまでの映像で、観ている間中泣けて泣けて仕方がなかった。申し訳ないのか、あわれみなのか、同情なのか知らないけれど、身を引きちぎられるような悲しみでどうしようもなかった。
 そんな、ずっと揺さぶられ続けるような映像のなかで、たった一か所だけ反射的に「嫌だ」と思った場面、悲しみや苦しみという感覚に嫌悪や否定という感情が一瞬の間に混じり入った場面が、双葉町の方々が双葉町に一時帰宅した時の映像で出てきた、てんでばらばらに倒れて混沌と荒れた墓所の映像だった。

 墓所は神聖な場所だ。私はまだ、勘違いしていたのだと思う。人間にとってどれだけ特殊な場所でも、地震には関係がない。地震が墓だけを避けて通るわけがない。言葉にするのもためらわれるくらい当たり前のことなのに、被災地を知らない私はそんなことも知らないでこの二年間いたのだ。

 『3.11 日常』も『フタバから遠く離れて』も、震災直後から半年ほどまでの間の映像だ。もちろん今と状況は様々に変化している。この映像で見たことを今にそのまま当てはめないように注意しながら、受け取ったものを出来るだけ零さずに3.11を考えたい。
2013.03.18
 三年前の晩夏に大量に本を購入し、さらにこの二年間は年あたりに読む冊数が激減して、まとめて本を買う機会から遠ざかっていた。
 一番最近に本を10冊以上一度に買ったのは昨年の夏の紀伊國屋書店による「ほんのまくら」フェアの時で、あれは本の書き出しだけで買う本を選ぶというスタイルだから、「気にかかった本を探して数ページ立ち読みして購入するか否かを決める」という、私にとってのいわゆる「ふつう」の本の買い方で本をまとめて買ったのは本当に久しぶりのことになる。

 「帰りに本を買いにゆく」と決めていた今日は、朝から心の底がわくわくしていた。「本を買う」というたったそれだけのことが楽しみで、仕事中も張りがあった。就業のころには空腹でふらふらになっていて急いで飲食店に駆け込むのが常であるのに、食事の時間も今日は惜しく、さっさと電車に乗って書店に向かってしまった。

 本を買うというのは、自分が「読んでいい」本を選ぶということなのだと思う。『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』でカリエールが言った「本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。あるいは、読んでもよかった本です。」(p.382)という言葉を思い出す。
 世には膨大な量の本がある。そのなかに、数えきれなくなりそうなほどの「読んでみたい」本がある。そのすべてを読み切ることは、絶対にない。一生涯ありえない。
 だからこそたぶん、本を買うということは幸福なのだと思う。

 書店にあるだけでは本はまだ遠く、「いつか読むかもしれない」存在だ。その時、本は私のものではない。「読むかもしれない」本は、同じくらい「読まないかもしれない」本でもあるからだ。
 買うと、本は私のものになる。本の支配権が私のものになる、と言う方が正解に近いか。
 カリエールの言った「読んでもいい本」という言い回しは、自分がその本を読むか否かの選択権を得たことを意味するのだと思う。(新刊本ばかりを読む私と違って稀覯本蒐集家のカリエールにとっては、この実感ははるかに強いもののはずだ)。本を買ったその時から、その本は「読めるか読めないか」でなく「読むか読まないか」の二択によって私のなかに存在するようになる。

 図書館を使わないのは所有欲の表れだと自覚してはいたけれど、その理屈を初めて体感で理解した気がする。
2013.03.14
 ひとりの女性が死の二週間前に娘へ宛てた手紙の下書きとして吹き込んだテープの書き起こし、という体裁。であるから、小説を読んでいるというよりは、問わず語りの見知らぬ他人の思い出をじっと聞き入る気持ちで読んでいた。

 深くない、詩的でない。多少、視野狭窄的である。小説として重要な何かが欠けている感じがする。

 けれど、どうしても飲み込まれてしまう。大阪万国博のあった1970年が舞台であり、現代とは違う距離感で描かれる恋愛模様が奇妙なほどの郷愁を誘う。本当の1970年を知らない私はこの郷愁が正しいかは知らない。
 しかしとにかく、この小説は目を離させなくさせる引力を持っていた。
2013.03.09
 下北沢のセレクトブックショップ、「本屋B&B」で今日開催された「震災復興を問いかける 文字の力、映像の力」に行って来ました。
 作家の池澤夏樹さんと映画監督の森元修一さんによる、3.11、そして3.11によって生まれてきた映画、本のトークイベントです。森元さんは震災から二週間足らずのうちに被災地に入ってハンディカムで映像を撮り、池澤さんも幾度も被災地に足を運んでいます。

 お二人についての簡単なご紹介の後、森元さんが撮って帰った映像による映画『大津波のあとに』のダイジェスト版が上映されました。音楽もナレーションもなく、津波が街をさらって行った後、まだようやくガレキの片付けが進み始めたところの被災地が映されます。そして、被災地で働く人、津波にさらわれた我が子の遺体を探す父親。
 正式版は明日、さらに来月以降にも上映予定があり、私は来月に観に行くつもりでいます。

 映像から何を思ったかは、まだ整理がつかないのですが、「生き残った人々は生きなければいけないのだ」とふと思いました。「地震が――」とカメラを構える森元さんが言った後、「津波が――」と一人娘を亡くされたお父さんが返したのが印象に残っています。津波に我が子をさらわれたあの方にとって、3.11は地震よりも津波であるのだろうと思いました。2週間が経って、まだ我が子には会えず、しかし2週間の間にもあのお父さんは食べ、飲み、眠っているはずです。何もかも失って、ガレキと泥だらけになった自分の街で、それでも生き残ったから生きなければならない。それは覚悟や背負でなく、ただそこにある現実として。

 イベント終了後、池澤夏樹さんのサイン会がありました。『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』を購入しサインを頂きました。
 本屋B&Bは魅力的な書店で、「ネットで見かけて気になり『読む本』リストに入れたものの近所の中規模書店では在庫のない本」、がたくさん見つかりました。ついつい、『晰子の君の諸問題』(佐々木中/河出書房新社)、『店員』(バーナード・マラマッド/文遊社)を買ってしまいました。どちらも、初めて見る本、初めて知る作家でした。
 本は、ルミネカードの会員割引を使って安く買える時にまとめ買いすることが多いです。財布事情には勝てません。普段は、気になった本があったらタイトルをメモして書棚に戻すことがほとんどです。
 「今ここで会えたことのうれしさ」から「ここで買いたい」と思いレジまで運ぶ体験はいつぶりだろうと思います。
2013.03.04
 面白かった。
 社会的階層間での言語の違い、地理的へだたりによる言語の違い、性別による言語の違い、国による言語の違い、互いに違う言語を母語とするひと同士が出会った時に生まれる言語。

 1974年にイギリス人学者が著した社会言語学の本の翻訳で、やっぱり例に挙げられるのは英語が多く多少なりと英語がわかっていないと理解が難しいところがあるけど、まあそれはそれとして、とても興味深いことがたくさん書いてあった。
 やっぱり言語学の勉強はしてみたい。

 この本の素晴らしいところは、訳者あとがきで土田滋さんも言っている通り、とても平易でわかりやすいところ。言語学や社会学を知らない人間にも確かに理解できるところ。